
本田氏は、1906年、静岡県生まれ。小学校を卒業後、東京湯島の自動車修理工場で丁稚奉公として6年働いたのちに暖簾分けを許され、浜松市に支店を出した。
1948年、本田技研工業を浜松市で設立。従業員20人でのスタートだった。翌年、のちに自動車メーカー・ホンダの副社長となる藤沢武夫氏と出会う。以後、研究・開発を本田氏が、営業・財務を藤沢氏が担当し、二人三脚で同社を世界的企業に育て上げていくこととなった。
掲出は、自分の人生を振り返り、事業の成功と失敗について語ったもの。後には「その実を結んだ1パーセントの成功が現在の私である。その失敗の陰に、迷惑をかけた人達のことを私は決して忘れないだろう」と続く。
成功の影には、失敗をともにした数多くの人たちがいる。そこまで思いをはせることができる人がトップに立てるのだろう
1948年、本田技研工業を浜松市で設立。従業員20人でのスタートだった。翌年、のちに自動車メーカー・ホンダの副社長となる藤沢武夫氏と出会う。以後、研究・開発を本田氏が、営業・財務を藤沢氏が担当し、二人三脚で同社を世界的企業に育て上げていくこととなった。
掲出は、自分の人生を振り返り、事業の成功と失敗について語ったもの。後には「その実を結んだ1パーセントの成功が現在の私である。その失敗の陰に、迷惑をかけた人達のことを私は決して忘れないだろう」と続く。
成功の影には、失敗をともにした数多くの人たちがいる。そこまで思いをはせることができる人がトップに立てるのだろう
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