
澄田氏は、1916年、群馬県生まれ。東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中・高等学校)、旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学(現・東京大学)法学部に入学。卒業後は大蔵省に入省するが、戦時中のため、すぐに海軍経理学校に入校。従軍してセレベス島で終戦を迎えた。
戦後は大蔵省に復帰。銀行局長などを経て1969年から約2年間、大蔵事務次官を務めた。大蔵省を退官後、日本輸出入銀行(総裁)を経て日本銀行に。1984年、第25代日本銀行総裁に就任した。
ちょうどアメリカの対日貿易赤字が拡大していた時期。1985年のプラザ合意でドル高が容認されたことで、急激に円高が進んだ。澄田氏は、そんな状況への対応を迫られることとなった。大蔵省の要請などもあり、1986年、金融緩和へと舵を切った。
掲出はそんな苦境を経験した澄田氏ならではの言葉。決断を下さなくてはならない立場に立った時、程度の差こそあれ、どんな人も「苦しい局面ほど責任者は孤独だ」と感じているのではないだろうか。
ちょうどアメリカの対日貿易赤字が拡大していた時期。1985年のプラザ合意でドル高が容認されたことで、急激に円高が進んだ。澄田氏は、そんな状況への対応を迫られることとなった。大蔵省の要請などもあり、1986年、金融緩和へと舵を切った。
掲出はそんな苦境を経験した澄田氏ならではの言葉。決断を下さなくてはならない立場に立った時、程度の差こそあれ、どんな人も「苦しい局面ほど責任者は孤独だ」と感じているのではないだろうか。
お気に入りに登録