
豊田氏は、1913年、愛知県西春日井郡金城村(現・名古屋市西区堀端町)生まれ。第八高等学校(現・名古屋大学)を経て、東京帝国大学(現・東京大学)工学部機械工学科に入学。卒業後、豊田自動織機に入社し自動車部配属となる。
1937年、従兄弟の豊田喜一郎氏とともにトヨタ自動車工業 に転籍。1945年、取締役に就任し、常務、専務を経て1967年に社長に。 14年9カ月間の在任期間ののち、喜一郎氏の長男・章一郎氏に職を譲り会長就任。1992年、名誉会長となった。
1994年、本田技術研究所の創立者・本田宗一郎氏に次いで日本人として2人目の米国自動車殿堂入りを果す。また、1999年には米国ニュース紙『TIME』 の「今世紀もっとも影響力のあったアジアの20人」のひとりに選出された。
掲出の前には「自動車は一度損をし始めたら、たちどころに泥沼に入り込んでしまう。逆に今がピークだと思ったら終わりだ」とある。15年近くに及んだ社長在任中、排出ガス規制問題や2度の石油危機を乗り越えたことを振り返った言葉。大企業であっても経営危機に陥る可能性がある。役職に付いている人 もない人も、日頃から緊張感をもって仕事に臨みたい。
1994年、本田技術研究所の創立者・本田宗一郎氏に次いで日本人として2人目の米国自動車殿堂入りを果す。また、1999年には米国ニュース紙『TIME』 の「今世紀もっとも影響力のあったアジアの20人」のひとりに選出された。
掲出の前には「自動車は一度損をし始めたら、たちどころに泥沼に入り込んでしまう。逆に今がピークだと思ったら終わりだ」とある。15年近くに及んだ社長在任中、排出ガス規制問題や2度の石油危機を乗り越えたことを振り返った言葉。大企業であっても経営危機に陥る可能性がある。役職に付いている人 もない人も、日頃から緊張感をもって仕事に臨みたい。
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