
槇田氏は、1909年、佐賀県武雄市生まれ。伯父の養子になり大谷姓から槇 田姓となる。東京府立第一中学校に入学。東京商科大学(現・一橋大学) を卒業後、 日本鋼管に入社した。
1941年、企画院(戦時経済統制の強化と国策企画にあたる内閣直属機関)に出向。5カ月後 、鉄鋼統制会(戦中に生産増強を目的に組織された、産業統制機構のひとつで鉄鋼業対する統制を担っていた組織)へ。戦時下の鉄不足が深刻化するなか、鉄供出の仕事に従事。戦後は日本鋼管に戻り鶴見製作所所長、営業部長などを務めた。1971年、前任の社長急逝をうけて社長に抜擢された。
社長就任後は、神奈川県の横浜市と川崎市 にまたがる人工島・扇島に、公害防止装置をそなえた世界最大級の製鉄所を建設したほか、日加経済人会議の世話人としてカナダへの直接投資を積極的におこなった。
掲出は、朝鮮戦争にともなう朝鮮特需が終息し、反動で陥った不況の折に営業部長を務めていたときの言葉。市場では値引き圧力が高まるなか、適正価格での販売を訴えた。取引先とは本来対等な関係のはずだが、値引きを要求されると断わりづらいのが現実。とはいえ、一度値引きに応じたら適正価格に戻すことはさらに困難なのは明白だから、安易な値引きは避けたいものだ。
社長就任後は、神奈川県の横浜市と川崎市 にまたがる人工島・扇島に、公害防止装置をそなえた世界最大級の製鉄所を建設したほか、日加経済人会議の世話人としてカナダへの直接投資を積極的におこなった。
掲出は、朝鮮戦争にともなう朝鮮特需が終息し、反動で陥った不況の折に営業部長を務めていたときの言葉。市場では値引き圧力が高まるなか、適正価格での販売を訴えた。取引先とは本来対等な関係のはずだが、値引きを要求されると断わりづらいのが現実。とはいえ、一度値引きに応じたら適正価格に戻すことはさらに困難なのは明白だから、安易な値引きは避けたいものだ。
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