
磯崎氏は、1912年、東京府東京市本郷区丸山町(現・東京都文京区千石)生まれ。東京帝国大学(現・東京大学)法学部卒業後の1935年、鉄道省に入省した。
仙台駅助役、大臣官房人事課勤務、広島鉄道局運輸部貨物課長などを経た後、職員課長として人員整理を手がけ、文書課長として国鉄スワローズ設立に関わった。1962年、当時の十河信二総裁と反りが合わずに退任するも、翌年、石田禮助総裁就任に伴い、副総裁として復帰。1969年には、第6代国鉄総裁に就任した。
国鉄職員の意識改革などを目的として、生産性向上運動を進めたが、労使対立が激化して、1973年に辞任。その後は早稲田大学教授を経て、1976年、新都市開発センター(後のサンシャインシティ)社長に就任した。
掲出は、半生をかけて国鉄の経営改革に努めたことを振り返っての言葉。
生産性向上に努めた磯崎氏だが、決して安全を忘れなかったということだろう。当たり前だが、安心・安全のない商品・サービスは絶対にあってはならない。利便性のみに目を眩ませられると足元をすくわれ、企業は決して大きく成長しないものだ。
国鉄職員の意識改革などを目的として、生産性向上運動を進めたが、労使対立が激化して、1973年に辞任。その後は早稲田大学教授を経て、1976年、新都市開発センター(後のサンシャインシティ)社長に就任した。
掲出は、半生をかけて国鉄の経営改革に努めたことを振り返っての言葉。
生産性向上に努めた磯崎氏だが、決して安全を忘れなかったということだろう。当たり前だが、安心・安全のない商品・サービスは絶対にあってはならない。利便性のみに目を眩ませられると足元をすくわれ、企業は決して大きく成長しないものだ。
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