
出光氏は、1885年、福岡県宗像郡赤間村(現・宗像市)生まれ。神戸高等商業学校(現・神戸大学経済学部)を卒業後、小麦粉と石油・機械油などを扱う酒井商店に丁稚として入店した。同校の卒業生は海運会社に入る者がほとんどだったため、友人の中には「学校の面汚し」などと蔑む者もいたという。
1911年、出光商会を創業し、機械油や石油の販売を開始。中国大陸にも進出する。1940年には、出光興産を設立して社長に就任すると、販売網を国内から中国、東南アジアに拡大していった。
戦後はタンカー“日章丸”を建造し、イランが国有化した石油を買い付けるなどして、同社を民族系最大手の石油会社に育て上げた。また、“人間尊重”、“大家族主義”を掲げて、戦後の苦しい時期にも社員を1人も解雇することなく、労働組合も定年制もない独特の経営方針をつらぬいた。
掲出は、第一次大戦中の経営を振り返っての言葉。この後は「他の事業会社では油が切れて事業を休んだところが沢山出た。わたしはただお客のために油を用意しただけだ。しかし、戦争が済んだら、油は出光にまかせておけということになった。金はもうけなかったが、得意先をもうけたのだ」と続く。
苦しい時に世話になった人は、その恩を忘れないものだ。「情けは人の為ならず」とも言うが、人を思いやる気持ちは、必ず巡りめぐって自分へと帰ってくる。信用とは、そのような互いを思いやる気持ちから作られる。
戦後はタンカー“日章丸”を建造し、イランが国有化した石油を買い付けるなどして、同社を民族系最大手の石油会社に育て上げた。また、“人間尊重”、“大家族主義”を掲げて、戦後の苦しい時期にも社員を1人も解雇することなく、労働組合も定年制もない独特の経営方針をつらぬいた。
掲出は、第一次大戦中の経営を振り返っての言葉。この後は「他の事業会社では油が切れて事業を休んだところが沢山出た。わたしはただお客のために油を用意しただけだ。しかし、戦争が済んだら、油は出光にまかせておけということになった。金はもうけなかったが、得意先をもうけたのだ」と続く。
苦しい時に世話になった人は、その恩を忘れないものだ。「情けは人の為ならず」とも言うが、人を思いやる気持ちは、必ず巡りめぐって自分へと帰ってくる。信用とは、そのような互いを思いやる気持ちから作られる。
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