
山本氏は、1925年、熊本市生まれ。陸軍航空士官学校を卒業後、少尉に任官し、特攻隊に配属となり満州へ。侵攻してきたソ連軍に対応する部隊だったが、そこで終戦を迎え、帰国する。
戦後、東京大学第二工学部電気工学科に進み、卒業すると、富士通信機製造(現・富士通)に入社。データ通信技術部次長、情報処理本部ソフトウェア技術部長、電子事業本部長などを務めた。その間、電子計算機に取り組み、大規模集積回路を搭載したコンピュータの開発に成功。1981年には代表取締役社長へ就任した。
IBMとの著作権紛争や、半導体やスーパーコンピュータをめぐる日米貿易摩擦などの折衝にあたったが、その際、一歩も引かない強気の対応をしたことから「闘う経営者」と呼ばれた。また、兄が戦争で亡くした経験から、戦没者慰霊活動にも積極的に参加している。
掲出は、富士通社長時代に自身のビジネス訓を語ったものだ。
動きの早い現代のビジネス社会では、若い世代の感性や彼らが持っているトレンド情報が会社の命運を左右することもある。勝手気ままと言うと若干軽く聞こえるが、そこには「主体性」があるということだ。時には目に余ることもあるかも知れないが、そこは年長者が導いてやればよい。そうして若い人には極力自由にやらせてやり、その感性や爆発力をイノベーションへとつなげていきたいものだ。
戦後、東京大学第二工学部電気工学科に進み、卒業すると、富士通信機製造(現・富士通)に入社。データ通信技術部次長、情報処理本部ソフトウェア技術部長、電子事業本部長などを務めた。その間、電子計算機に取り組み、大規模集積回路を搭載したコンピュータの開発に成功。1981年には代表取締役社長へ就任した。
IBMとの著作権紛争や、半導体やスーパーコンピュータをめぐる日米貿易摩擦などの折衝にあたったが、その際、一歩も引かない強気の対応をしたことから「闘う経営者」と呼ばれた。また、兄が戦争で亡くした経験から、戦没者慰霊活動にも積極的に参加している。
掲出は、富士通社長時代に自身のビジネス訓を語ったものだ。
動きの早い現代のビジネス社会では、若い世代の感性や彼らが持っているトレンド情報が会社の命運を左右することもある。勝手気ままと言うと若干軽く聞こえるが、そこには「主体性」があるということだ。時には目に余ることもあるかも知れないが、そこは年長者が導いてやればよい。そうして若い人には極力自由にやらせてやり、その感性や爆発力をイノベーションへとつなげていきたいものだ。
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