
平塚氏は、1881年、北海道函館生まれ。日露戦争に従軍した後、1907年に義兄の堤清六氏とともに堤商会を設立、サケ・マス缶詰の製造販売を始めた。
その後、日魯漁業(現・マルハニチロ)を設立して常務、後に社長に就任。他に太平洋漁業、千島水産の社長なども務めた。第2次世界大戦後は政界に転じ、1946年の衆議院議員総選挙で初当選。第1次吉田内閣では運輸大臣を務めた。
翌年GHQの公職追放処分を受けるも、処分解除後、日魯漁業社長に復帰。1955年には再び衆議院議員総選挙に当選し、政界への復帰も果たした。1958年には大日本水産会会長を務め、日ソ協会副会長として日ソ漁業交渉、日中漁業協会会長として日中漁業交渉や日中漁業協定の成立に活躍した。
掲出は、1933年の日魯株を巡る経済スキャンダルの東拓事件など、それまで平塚氏がぶつかっては突破してきた、経営上の難関を思い出しての言葉。
仕事をしていると、自分の責任ではない難関にぶつかることがたびたび起きる。そんな時、「ライバルが強すぎる」、「景気が悪すぎる」など、不可能な理由を挙げ連ねて諦めてしまう人は多いのではないだろうか。しかし、ペダルをこぐのをやめると倒れてしまう自転車のように、諦めたらそこで終わりだ。求め続け、挑み続けた者にこそ道はひらかれる。
その後、日魯漁業(現・マルハニチロ)を設立して常務、後に社長に就任。他に太平洋漁業、千島水産の社長なども務めた。第2次世界大戦後は政界に転じ、1946年の衆議院議員総選挙で初当選。第1次吉田内閣では運輸大臣を務めた。
翌年GHQの公職追放処分を受けるも、処分解除後、日魯漁業社長に復帰。1955年には再び衆議院議員総選挙に当選し、政界への復帰も果たした。1958年には大日本水産会会長を務め、日ソ協会副会長として日ソ漁業交渉、日中漁業協会会長として日中漁業交渉や日中漁業協定の成立に活躍した。
掲出は、1933年の日魯株を巡る経済スキャンダルの東拓事件など、それまで平塚氏がぶつかっては突破してきた、経営上の難関を思い出しての言葉。
仕事をしていると、自分の責任ではない難関にぶつかることがたびたび起きる。そんな時、「ライバルが強すぎる」、「景気が悪すぎる」など、不可能な理由を挙げ連ねて諦めてしまう人は多いのではないだろうか。しかし、ペダルをこぐのをやめると倒れてしまう自転車のように、諦めたらそこで終わりだ。求め続け、挑み続けた者にこそ道はひらかれる。
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