
田代氏は、1890年、福岡県北九州市生まれ。1913年、明治専門学校(現・九州工業大学)機械学科を卒業し、三井物産に入社。ニューヨーク支店勤務、ロンドン支店勤務などを経て、1936年、三井物産の出資で設立された東洋レーヨン(現・東レ)に取締役として就任し、社長、会長、名誉会長を歴任した。1947年にGHQの公職追放措置を受けたが、1950年に代表権を持つ会長として復帰し、1970年まで務めた。
会長時代にはアメリカのデュポン社からナイロンの技術導入に成功するなど多くの功績を挙げた。導入には資本金を上回る10億8,000万円もの金額を要したが、これが同社の飛躍を導いたため、後にこの決断は「大いなる決断」と呼ばれた。他にもイギリスのICI社からテトロンの技術導入に成功するなど、東レの発展に寄与した。
掲出は名誉会長当時に、自身の経営観を語った言葉。企業が利益を追求するのは当然のことだが、それ以上に社会貢献が大切である、との考えを述べたものだ。事実、田代氏主導によるナイロン技術導入は、戦後日本の技術革新を大いにリードした。
企業が存続できるのは、当然ながら社会に必要とされているからである。自社の利益のみを追求し、一時的に好業績を記録してもきっと長くは続かない。社会の繁栄なくして、企業の繁栄はありえないからだ。
会長時代にはアメリカのデュポン社からナイロンの技術導入に成功するなど多くの功績を挙げた。導入には資本金を上回る10億8,000万円もの金額を要したが、これが同社の飛躍を導いたため、後にこの決断は「大いなる決断」と呼ばれた。他にもイギリスのICI社からテトロンの技術導入に成功するなど、東レの発展に寄与した。
掲出は名誉会長当時に、自身の経営観を語った言葉。企業が利益を追求するのは当然のことだが、それ以上に社会貢献が大切である、との考えを述べたものだ。事実、田代氏主導によるナイロン技術導入は、戦後日本の技術革新を大いにリードした。
企業が存続できるのは、当然ながら社会に必要とされているからである。自社の利益のみを追求し、一時的に好業績を記録してもきっと長くは続かない。社会の繁栄なくして、企業の繁栄はありえないからだ。
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