
井植氏は、1902年、兵庫県津名郡浦村(現・淡路市浦字井上浜)生まれ。父親は船を持ち、自家貿易をしていたが、井植氏が13歳の時に死去。井植氏は跡を継いで船乗りになった。ところが、乗っていた船が東京倉庫(現・三菱倉庫)の爆発事故に巻き込まれ沈没、九死に一生を得たが、商売道具の船を失ってしまう。
そんな折、松下幸之助氏のもとへ嫁いでいた姉の勧めで、創業間もない松下電器製作所(現・パナソニック)に入社することに。1935年の株式会社改組時には、専務取締役に就任した。しかし、戦後、松下電器に対するGHQの公職追放令があり、幸之助氏を庇う形で松下電器を退社。翌年、三洋電機製作所を設立し、社長に就任した。
掲出は、関東大震災の時、井植氏が被害を受けた取引先に対し、それまでの売掛金を半額に減らし、さらには新しい品物を後払いで供給した経験から得た教訓である。
人が好調なときに便宜を図ってもあまり感謝されない。便宜を図ったことすら忘れられてしまうかも知れない。しかし、本当に困っている時に救いの手を差し伸べられたことを忘れる人はいない。見返りを考えて行動すべきではないだろうが、人から感謝されるということは、同時に人の心を掴むことでもある。
そんな折、松下幸之助氏のもとへ嫁いでいた姉の勧めで、創業間もない松下電器製作所(現・パナソニック)に入社することに。1935年の株式会社改組時には、専務取締役に就任した。しかし、戦後、松下電器に対するGHQの公職追放令があり、幸之助氏を庇う形で松下電器を退社。翌年、三洋電機製作所を設立し、社長に就任した。
掲出は、関東大震災の時、井植氏が被害を受けた取引先に対し、それまでの売掛金を半額に減らし、さらには新しい品物を後払いで供給した経験から得た教訓である。
人が好調なときに便宜を図ってもあまり感謝されない。便宜を図ったことすら忘れられてしまうかも知れない。しかし、本当に困っている時に救いの手を差し伸べられたことを忘れる人はいない。見返りを考えて行動すべきではないだろうが、人から感謝されるということは、同時に人の心を掴むことでもある。
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