
井深氏は、1908年、栃木県上都賀郡日光町(現・日光市)生まれ。早稲田大学理工学部を卒業後、東京芝浦電気(現・東芝)の入社試験を受けるが不合格に。その後、写真化学研究所、日本光音工業を経て、日本測定器の常務に就任した。
軍官民合同の科学技術の委員を委嘱された縁で、海軍技術中尉だった盛田昭夫氏と出会う。
敗戦から2ヶ月後に個人企業東京通信研究所を立ち上げ、翌年、同所を盛田氏らとともに、東京通信工業(後のソニー)として改組。以後、研究・開発を井深氏、マーケティングを盛田氏が担当して事業を拡大していった。
掲出はソニーの開発戦略において常に心掛けてきたことを語った言葉だ。かつて、ソニーをモルモットと揶揄する記事が週刊誌に掲載されたことがある。評論家の大宅壮一氏が東芝について書いたもので、このような内容だった。
「トランジスタではソニーがトップメーカーだったが、今では東芝がトップ。儲かると分かれば必要な資金をどんどんと投じられるところに東芝の強みがある。ソニーは東芝のためにモルモット的な役割を果たしたことになる」。
これに最初は憤慨した井深氏だったが、後にソニーに対する最大の賛辞と捉えるようになったという。実際、ソニーはその後も新しい商品を他社に先駆けて開発・販売し、業績を伸ばしていった。
他がやっていないことにチャレンジするにはリスクを覚悟しなくてはらない。うまくいっても資金力のある大企業に市場を持っていかれる可能性もある。しかし、いつまでも人真似を続けていたのでは、人と組織の可能性を拓けないだろう。
軍官民合同の科学技術の委員を委嘱された縁で、海軍技術中尉だった盛田昭夫氏と出会う。
敗戦から2ヶ月後に個人企業東京通信研究所を立ち上げ、翌年、同所を盛田氏らとともに、東京通信工業(後のソニー)として改組。以後、研究・開発を井深氏、マーケティングを盛田氏が担当して事業を拡大していった。
掲出はソニーの開発戦略において常に心掛けてきたことを語った言葉だ。かつて、ソニーをモルモットと揶揄する記事が週刊誌に掲載されたことがある。評論家の大宅壮一氏が東芝について書いたもので、このような内容だった。
「トランジスタではソニーがトップメーカーだったが、今では東芝がトップ。儲かると分かれば必要な資金をどんどんと投じられるところに東芝の強みがある。ソニーは東芝のためにモルモット的な役割を果たしたことになる」。
これに最初は憤慨した井深氏だったが、後にソニーに対する最大の賛辞と捉えるようになったという。実際、ソニーはその後も新しい商品を他社に先駆けて開発・販売し、業績を伸ばしていった。
他がやっていないことにチャレンジするにはリスクを覚悟しなくてはらない。うまくいっても資金力のある大企業に市場を持っていかれる可能性もある。しかし、いつまでも人真似を続けていたのでは、人と組織の可能性を拓けないだろう。
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