10億円もの負債をかかえるも「一場所、二根、三ネタ」を徹底し、V字回復に成功(木下大サーカス)

企業経営には、さまざまな危機がつきまとう。社員の採用、定着や育成がうまくいかない。管理職の部下育成力が低く、社員が育たない。部署やグループの情報共有が進まない。チームビルディングができない。役員など経営層の意向や考えが全社に浸透しない。資金繰りや財務管理に軋みが生じる。業績が伸び悩み、ダウンする。人員削減をせざるを得ない。これらのピンチに、経営者や役員、社員はどのように向かい合い、乗り越えるべきか。

今回のリーダー:木下サーカス株式会社 代表取締役社長 木下 唯志 氏

企業経営には、さまざまな危機がつきまとう。社員の採用、定着や育成がうまくいかない。管理職の部下育成力が低く、社員が育たない。部署やグループの情報共有が進まない。チームビルディングができない。役員など経営層の意向や考えが全社に浸透しない。資金繰りや財務管理に軋みが生じる。業績が伸び悩み、ダウンする。人員削減をせざるを得ない。

これらのピンチに、経営者や役員、社員はどのように向かい合い、乗り越えるべきか。今回は、世界3大サーカスの「木下大サーカス」を運営する木下サーカス株式会社代表取締役社長の木下唯志さんに話をうかがった。

リーダープロフィール
木下 唯志(きのした ただし)

1950年、岡山市生まれ。1974年に明治大学経営学部卒業後、木下サーカス株式会社入社。1990年に4代目として代表取締役社長に就任。剣道三段。

負債は最大10億円、廃業寸前の経営危機

「今振り返ると、ある意味でチャンスだったのかもしれないが、実際はピンチという程度のものではなかったように思う」

創立117年となる木下サーカス(本社、岡山市)の4代目社長・木下唯志(ただし)氏が1990年前後の経営危機を振り返る。1990年に、兄である光宣社長の後を40歳で継いだ。兄は1年間ほどの闘病生活の末、45歳で亡くなった。その時点で約10億円の負債を抱え込んでいた。創業以降、最大の危機だった。その後、約10年かけて完済する。

「私が就任した頃は、社員が次々と退社した。会社の先が見えない状態でしたからね。残ったみんなで力をあわせ、返済した。一時期は廃業寸前だったから、奇跡だ。みじめな時期を乗り越えると、人生観が変わることも知った」

ピンチを迎えた大きなきっかけが、88年に開催された「瀬戸大橋架橋記念博覧会」(瀬戸大橋博’88)だった。本州と四国を結ぶ瀬戸大橋の開通を記念するイベントで、岡山県の倉敷市と香川県の坂出市で行われた。
10億円もの負債をかかえるも「一場所、二根、三ネタ」を徹底し、V字回復に成功(木下大サーカス)
光宣社長は、坂出市での開催を決めた。社内では、倉敷市での開催のほうが観客動員は増えるのでないか、といった声があった。だが、光宣社長は考えを変えなかった。

「義理堅く、人柄がよかったから、香川県側で開催するうえでの人間関係などを優先させたのだろうと思う。契約期間(開幕~閉幕まで)も博覧会に合わせて、半年にした。サーカスの公演は、年間250日ほどで、1年4~5場所。通常は1場所につき、2ヵ月~2ヵ月半が多い。半年という期間は確かに長かったのだと思う。会長であった父は長年の経験から、瀬戸大橋博’88の集客が伸び悩む可能性が高く、半年は長いことを当初から指摘していた」

父が懸念していた理由の1つが坂出市の人口で、当時約6万6千人だった。社内では、観客動員数が目標を突破するためには、25万~30万人以上が好ましいと考えていた。坂出市の人口が少ないことに加え、会場までのアクセスも必ずしもよくはなかった。

実際に公演をスタートさせても、観客数は想像どおり、伸び悩んだ。父は違約金を払ってでも、公演を3か月間で終えるように光宣社長に進言した。集客のペースに回復の兆しはなかったからだ。むしろ、鈍化した。だが、光宣社長は6ヵ月間の契約を守る選択をした。

「何事にも誠実だった兄は、木下サーカスが信用を失うことを案じたのだと思う。6ヵ月間にしたことで、負債が膨らみ、閉幕時には3億円の赤字となった。会社の累積赤字はその後、1990年前後で10億円程まで増えていく。兄は、ストレスを抱え込むようになった。そして、ある日取引先の金融機関で倒れて、1年間の闘病の末に亡くなった。“常にあることはない”という無常という言葉を思い知った。3ヵ月間で公演を止めておけば、もしかすると、あの時点で亡くなることはなかったのかもしれない」

判断を見誤った理由はどこにある?

木下氏は当時、判断を見誤った理由の1つとして、1988年以前の成功体験を挙げる。1960~70年代は、サーカス業界は淘汰の時代だった。かつて国内に30~40のサーカス団があったと言われるが、この時期に多くが廃業、倒産していた。その中で木下サーカスは大きく飛躍し、国内ナンバー1の地位を確固たるものとする。同時に海外進出も加速させた。

1980年代に入っても躍進は続く。81年の「神戸ポートビア'81」での観客動員は、6ヵ月間で160万人を超えた。84年の「'84高知・黒潮博覧会」でも成功を収める。これら一連の成功が、意思決定に何らかの影響を与えたのではないか、と木下氏は述懐する。

「瀬戸大橋博’88の場合は、開催地が岡山県側と香川県側との2会場での博覧会だったが、そのたった1つの判断の成否で兄をみることを、私はできない。人格者で、誠実そのものだった。それが災いした一面があるのかもしれないが、あの時、私が同じ状況にいたら、兄と同じ判断をしたのでないか。6ヵ月間という期間で公演を引き受けた以上は、最後まで貫徹しないといけない。ただし、最初の時点で期間を慎重に考え、契約をすることが大切だった」
10億円もの負債をかかえるも「一場所、二根、三ネタ」を徹底し、V字回復に成功(木下大サーカス)
※写真はイメージで現在のものになります

「一場所、二根、三ネタ」の方針とショーのグローバル化で経営危機を克服

木下氏は社長就任以降、次々と改革に取り組む。まず、役員や管理職を中心にチームを組んで、公演前に公演場所、観客動員数、公演期間を可能な限り正確に算出するようにした。財務の管理も一段と徹底させた。もともと、木下社長の姉である嘉子副社長のもと、綿密な予算計画や資金繰りが行われていたが、経営危機以降、関係者間の情報や意識の共有をより緻密にするなどして、態勢を強化したのだ。

業績を回復させるために徹底したのが、「一場所、二根、三ネタ」の方針だ。「場所」は公演地や公演の運営、さらにテントや観客席などを意味する。「根」は営業やプロモーションに必要な根気、「ネタ」は公演の内容(演目)などだ。

場所は人口20~30万人以上の都市で、電車やバス、タクシーなどの交通の便がよい地域を中心に選んだ。最近は、ショッピングセンターなどがそばにある場所が多い。観客席は社長就任当時、鉄製の頑丈なものだったが、公演地の移動の際などの運搬にコストがかさんでいた。木下氏は座りやすく、運搬の際に機動性に富んだ客席に変えたほうが好ましいと判断した。さっそく、イタリアに出向き、知人のプロデューサーと会い、話し合う。

この時の助言をもとに、1年後に円形の階段式観覧席を導入した。軽くて、丈夫で座りやすいものだ。運搬のコストも大幅に削減できた。この観覧席は、今も多くの観客に愛されている。会場のあり方も変えた。見た目を重視し、テントの高さや材質などにヨーロッパのサーカスの基準を取り入れ、新鮮な印象を与えるようにした。
10億円もの負債をかかえるも「一場所、二根、三ネタ」を徹底し、V字回復に成功(木下大サーカス)
営業やプロモーションでは、個々の社員が独自の判断で動くのではなく、チームを組んで組織力を生かすように徹底した。まず、営業のチーム編成を変えた。公演中、次の公演、その先の公演、その後の公演地の開拓とバックアップをする本社の計5つにした。チーム間で互いに情報を共有し、ムリ・ムダ・ムラを省き、効率よく動くようにもした。

ほぼ同時期に、新卒(主に大卒)採用を本格化させる。募集職種に営業職を入れて、新卒者中心の生え抜き社員のチームをつくるようにもした。定着率はより一層に高くなり、チーム力を生かす営業力が一段と強化された。このような態勢ができたことで、少なくとも1年半~2年先まで決まっている公演のプロモーションを地元の企業や団体、新聞やテレビなどのマスメディア、地域住民などにすることができるようになった。

経営危機以降、海外の一流アーティストを積極的に招くようにもした。まず、世界のサーカス団関係者とのネットワークを活かしたスカウト網を強化した。ロシア、中国、韓国、イギリス、東欧諸国、アメリカ、中近東にまで拡大する。スカウトした後、アーティストが日本に滞在する間、本人や家族の生活支援などにもより力を注ぐようにしている。たとえば、子どもの学校編入のサポートなどだ。アメリカの一流の演出家を招き、ショーの内容(演目)にも助言を受けた。以前は演技が終わるごとに長く照明を暗転させていたが、感動を持続させるために暗転の時間を短くして、演目の間をスピーディーにした。
10億円もの負債をかかえるも「一場所、二根、三ネタ」を徹底し、V字回復に成功(木下大サーカス)
「木下サーカスでは、日本人や外国人といった発想で社員やスタッフを捉えることはしない。海外のサーカスでは、様々な地域や国の人たちでショーが成り立っている。日本でも、質の高いショーにするためには、グローバル化は避けて通れない」

時代を先取りし、この時期にグローバルなショーに変えたことが功を奏し、公演は成功を続ける。年間の観客動員は、100万人から120万人を超えるようになった。世界のサーカスでも、1、2を競う数である。まさに、ピンチにチャンスあり!と言えるのかもしれない。それでも、木下社長は「公演をしてみないと依然として見えないものがある」と語る。

「兄があのような形で死に至るなんて思いもよらなかった。誰もが先の先まで、わからない。God only knows(神のみぞ、知る)!だからこそ、調子がよくとも、ピンチと受けとめたほうがいい。むしろ、チャンスの時こそ、ピンチとみるべき。そして、自分を戒めるべき。私も、そうありたいと願っている。私たちは社員が100人ほどだが、ピカリと光り輝く、世界1のエンターティメント集団でありたい」
10億円もの負債をかかえるも「一場所、二根、三ネタ」を徹底し、V字回復に成功(木下大サーカス)