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渋沢栄一の「士魂商才」 ビジネスリーダーなら知っておきたい「日本資本主義の父」の肖像

第31話:大蔵省VS司法省の大喧嘩が勃発――渋沢栄一&井上馨と江藤新平の対立

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司法卿・江藤新平の逆恨み

さて、ここまでの井上・渋沢コンビの奮闘ぶりを念頭において、ふたたび明治5年における各省と大蔵省との「一種の権限闘争の如き紛議」(『雨夜譚』)がどのように進展したか、という問題に視線をもどそう。前話(第30話)で触れたように、大蔵省をもっとも激しく攻撃したのは司法卿江藤新平である。その次に強硬な態度をとったのは初代文部卿の大木喬任(たかとう)で、両者はともに旧佐賀藩の出身。旧佐賀藩士には頭脳は優秀だが勉強ばかりしていて頭でっかちな者が多い、という定評があった。

その江藤が大蔵省の井上・渋沢コンビと衝突したきっかけは、江藤が明治6年(1873)度の文部省予算を請求するに際し、積極的放漫政策をとろうとしたことにあった。

「即ち(明治5年)十一月分の支出を基本として積算したならば、三府十二県の各裁判所一箇年予算経費金五十二万六百二十両六千元で済む所を、六年度に対して、区裁判所の設置、検事、検部の出張、檻倉並びに警察費を込めて、九十万五千七百四十四両(ママ)六千元(ママ)を計上し、之を強硬に大蔵省に請求した。然るに大蔵省では之を精査して大斧鍼(だいふえつ)を加へ約四十五万両(ママ)に減縮したので、江藤は大いに憤慨し、公に対して執拗に抗弁する所があった」(『世外井上公伝』1、数字は江藤の伝記『江藤南白』下巻の挙げる額面と同一だが「両」とは「円」のこと、「元」が何を意味するか不明)

大木喬任が請求した予算額は「二百万円」(『世外井上公伝』1)、「百三十万両(ママ)」(『江藤南白』下巻)と説がわかれるが、前者によれば大木は請求額を「百三十万円」まで下げて妥協を求めたが、井上はこれも退けて100万円しか出さなかったという。

明治5年の歳入額は4,000余万円に達していたとはいえ、この歳入額では財政上700万円以上が不足していた。だからこそ井上・渋沢コンビは太政官札や公債の発行、あるいは借入金などによって急場をしのいできたのであり、「入るを量って出だすをなす」の原則に照らし、司法省や文部省の予算請求はとても呑めるものではなかったのだ。

大蔵省と司法省の不仲に太政官も困惑

怒った江藤は井上に対し、こう豪語したこともあった。

「足下は口常(くちつね)に経済を唱へるが、経済とは経世済民の道であつて、必要に応じて経費を按排(あんばい)(按配)するのを本旨とする。足下の所謂(いわゆる)経済はただ算盤勘定だけで、真の経済ではない」(『世外井上公伝』1)

大蔵省と司法省の関係が険悪になった原因にひとつとして、贖罪金(しょくざいきん)の処分問題をあげることができる。贖罪金とは犯した罪をつぐなうために差し出す金のことで、いにしえの法律「延喜式(えんぎしき)」に定められたものが王政復古とともに復活していた。しかも、なぜか明治の贖罪金は大蔵省の国庫に納められるのではなく、支払い窓口の司法省が経費として流用していた。井上はその不合理に気づき、贖罪金は大蔵省へ納めさせようとした。

それが江藤の癪(しゃく)に障ったと聞いた太政大臣三条実美は、参議の大隈重信に対し、「贖罪金を司法(省)で使用することは賛成しがたいから、一応大蔵(省)へ入れて、而(しこう)して後に司法(省)に振向けるやう一応君から井上に談じて貰ひたい」(同)と書面で依頼した。

そこで大隈が井上と懇談してみても、「正院(太政官政府の中枢)の指図とあらば承伏する外は無いが、会計上の運用をどうするべきかの御指図も願ひたい」(同)、と井上も引き下がらない。幕末には色白なことから「白豆」と渾名(あだな)されていた気の弱い三条太政大臣は困惑してしまい、明治6年度の予算は、5年11月に入ってからも成立しなかった。しかも、大隈は視察と称して西国へ主張。井上も11月5日から欠勤し、政務を見なくなった。

渋沢栄一から見ると今日の内閣総理大臣に当る「白豆」三条実美の腰のふらつきも悶着沙汰が解決に向かわなかった一因だったようで、『雨夜譚』は下のように記述している。

「政府は言を左右にして司法、文部の請求を擯斥(ひんせき/却下)せぬによって、井上は断然辞職の意を決し、年末に際して出勤せぬから、大蔵省の諸職員は執務の張合が抜けてその方向を失うほどであったから、政府においても大いにこれを憂慮しられて、三条公は再三自分(栄一)の宅へ来られて、井上の出勤を勧誘すると共に自分にも辞職の考えなど起こさぬようにと、懇(ねんご)ろに説諭を受けましたが【略】翌年六月に引続いて、各省と大蔵省との紛議は絶えなかった。(略)江藤新平と井上との間は別して不折合(ふおりあい)で、いわゆる氷炭相容れずという仲だから、江藤の意中では全体井上は怪しからん人物だ、ただただ各省(の予算請求)を詰めるばかりで、而して自分が大蔵省を専横するというのは実に不埒(ふらち)だ、もしこのままにして打捨て置く時にはどこまで跋扈(ばっこ)するか知れぬなどといって、ますますその軋轢(あつれき)が烈しくなった」

むろん、この「軋轢」の余波は、栄一にも及んだ。『世外井上公伝』1に掲載された栄一の談話に、次のくだりがある。

「井上さんの居らぬ時に江藤が私の所に来て、司法省の方に金を幾ら出せ、太政官で命令が出たから渡せといふ。私は渡さぬ。渡さなければ違勅だといふ。違勅であるか知らぬが、此処(ここ/大蔵省)の主宰者は大蔵卿で、其留守中、井上大蔵大輔が主任してゐる。其主任の指図がなければ、如何(いか)なることがあつても渡すことは出来ぬと言つて拒絶したことがある。江藤さんは、ひどい奴だと言つて帰られたことがあります」

井上・渋沢コンビがこの問題に示した最終的な態度については、次話で眺めよう。

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プロフィール

作家 中村 彰彦

作家 中村 彰彦

1949年栃木県生まれ。作家。東北大学文学部卒。在学中に「風船ガムの海」で第34回文學界新人賞佳作入選。卒業後1973~91年文藝春秋に編集者として勤務。1987年『明治新選組』で第10回エンタテインメント小説大賞を受賞。1991年より執筆活動に専念し、93年、『五左衛門坂の敵討』で第1回中山義秀文学賞を、94年、『二つの山河』で第111回(同年上半期)直木賞を、2005年に『落花は枝に還らずとも』で第24回新田次郎文学賞を、また2015年には第4回歴史時代作家クラブ賞実績功労賞を受賞する。近著に『幕末維新改メ』(晶文社)など。史実第一主義を貫く歴史作家。

ホームページ:中村彰彦公式サイト

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