第30話:日本初の国立銀行を設立へ

日本の資本主義の礎を築いた渋沢栄一。2022年に日本最高額紙幣の“顔”となる「日本資本主義の父」がどのように生まれたかを、史実第一主義の直木賞作家・中村彰彦氏が紹介する(編集部)。

父の訃報と渋沢家の相続問題

渋沢栄一にとって、明治4年(1817)11月の後半から12月にかけては超多忙な日々となった。前話で見たように、栄一が大阪出張から東京へもどったのは11月15日のこと。これも前話で見たように西郷隆盛の渋沢邸訪問は、栄一が16日から12月初旬までふたたび旅に出たことから逆算してこの15日中のことと考えられる。その日の晩には故郷の武州血洗島村から急飛脚もやってきた。栄一の父・市郎右衛門(いちろうえもん)が13日ににわかに病みついたから来てほしい、というのだ。

しかし井上馨にまだ大阪の造幣局のことを復命していないし、役人は賜暇(しか)を得る手続きを済まさない限り、私的な旅に出ることは許されない。その夜を一日千秋の思いで過ごした栄一は、翌十六日の早朝、井上に会見。大坂の模様を陳述し、すぐに父の看護のため帰省の許可を得て東京を出発。駕籠を雇い、悪いことに大雨になった中、夜の九時頃ようやく中山道の深谷宿に着いた。その先で夕食を済ませ、実家に到着したのは「夜の十一時過ぎであつた」と『雨夜譚』にある。

市郎右衛門は13日以来人事不省に陥っていたが、その頃には回復し、栄一の帰郷を大いに喜んでくれた。そのとき栄一は、父の意識がはっきりしているうちに相談・決定しておくべき重要事項をひとつ抱えていた。それは、市郎右衛門亡き後、「中の家」渋沢家をだれに相続させるか、という問題であった。栄一自身は、明治元年(1868)の暮の時点で岡部藩により、一橋家の家臣になったことを理由に村方人別帳(にんべつちょう/戸籍)から除かれてしまっていた。しかも栄一は、その後は静岡藩を経て大蔵省に出仕、郷里の実家を相続するにはますます不適当となっていたので、この明治四年四月五日に戸籍法(いわゆる壬申〈じんしん〉戸籍)が制定されるや、6月20日をもって東京府民に編入されることを願い出て許されていた。

となれば実家の「中の家」は、だれかを養子に取って相続させねばならない。栄一が父にそのことを申し出ると、「此家は汝の承(う)くべきものなのであるから、我が亡き後はそなた次第である」(『渋沢栄一伝』)と答えた。幸田露伴はそう書いて、下のようにつづけている。

「そこで栄一は父の妹きぬが須永(すなが)伝左衛門に嫁して出来た才三郎を、人品も宜(よろ)しく年齢も恰好なれば、妹の貞に婿(むこ)として迎へて家を襲(つ)がすることを進言して、それでは宜しく頼むといふ、老人の安心を得させた」

「中の家」渋沢家は本来なら栄一が相続すべきだが、その栄一は東京に分家を興し、本家は才三郎・貞夫妻が襲ぐことに決まったのである。11月26日、脳を病んでいた市郎右衛門は静か生涯を終えた。享年63。ねんごろに葬儀を営んだ栄一が、帰京したのは12月初旬のこと。のちに栄一は東京谷中(やなか)の天王寺(てんのうじ)にその招魂碑(しょうこんひ)を建て、尾高惇忠に碑文を書いてもらった。その文面は『雨夜譚』に詠み下し文が、阪谷芳郎編『青淵先生六十年史 一名近世実業発達史』第一巻に原文(漢文)に返り点を付したものが全文紹介されているので、興味のある向きはこれらを参照されたい。

栄一は父の死に際し、「慟哭(どうこく)の至りに堪えられなかった」(『雨夜譚』)と述懐している。このふたりが心の通い合う父子関係であったことは確かである。

渋沢成一郎の波乱万丈な人生

帰京して大蔵省の公務にもどった栄一は、12月12日に従五位(じゅごい)に叙せられ、18日にはこれまで大蔵大丞という役職のまま紙幣頭(しへいのかみ)を兼任することになった。明けて明治5年(1872)は、1月29日に初めて全国レベルでの戸籍調査が実施され、総人口が3,311万825五人と判明した記念すべき年となった。

これに先立つこと15日、1月14日に栄一は総額250万円に及ぶ開拓使兌換(だかん)証券(第26話参照)の発行を布告。前後して、従兄の渋沢成一郎が保釈されたのを出迎えにゆくなどした。

明治元年、榎本武揚と行動をともにして蝦夷地(えぞち)政権(榎本脱走軍)に参加した成一郎は、少彰義隊(しょうしょうぎたい)歩兵頭並として戦いつづけた。だが、明治2年(1869)5月、本拠地箱館五稜郭(ごりょうかく)に最後の日が迫ると温泉のある湯の川へ脱走。降伏して明治新政府軍に捕らえられ、同年6月以降、榎本武揚、松平太郎、大鳥圭介、永井玄蕃(げんば)、荒井郁之助、沢太郎左衛門の6名とともに東京へ送られて軍務局糺問所の牢屋に投じられていた(山崎有信『大鳥圭介伝』)。

この牢屋は大鳥圭介が旧幕府歩兵頭だった時代に建築したもので、ひろさは六畳敷きだが厠(かわや)と流し場があるから実質は4畳半。脱走軍の幹部7人はそのひとり大鳥の造った牢に詰めこまれ、蚤(のみ)と蚊と厠の臭気に悩まされながら、明治5年初めに晴れて赦免(しゃめん)となったのである。

渋沢喜作(きさく)と名を改めた成一郎のその後について、日本歴史学会編『明治維新人名辞典』はこう記述している。

「五年出所、栄一の助力により大蔵省七等出仕、ついで蚕糸業調査のためイタリアに派遣され、翌年帰国と同時に退職、以後は実業会で活躍した。即ち、小野組に入り、ついで横浜で生糸売込問屋を経営、さらに廻米問屋・鉱山業・製麻会社・人造肥料会社・十勝開墾会社・鉄工所等に関係し、二十九年東京商品取引所理事長にもなった。年七十五で没」

こう書かれると渋沢喜作は順風満帆の後半生を送ったように感じる者が多いであろうが、この辞典の記述はよろしくない。喜作が明治7年(1874)に開業した廻米問屋兼生糸売込問屋は「渋沢商会」と称したが、のちに喜作は相場取引に失敗して長男に店をゆずり隠居した。その後、栄一の助けによって同商店は持ち直すことができた、というのが真相であり、喜作はどこまでも栄一の助力に頼って生きた人物だったのだ。

大蔵省と各省の不仲

ついで明治5年2月、大蔵省は去年大蔵少輔に任じられたばかりの吉田清成(きよなり)(旧薩摩藩士)にイギリス出張が命じられた。その目的はイギリスにおいて公債を発行し、購入者を募集することにあった。『雨夜譚』はいう。

「この公債募集の事は大蔵省で井上(馨)が立案したもので、その主意は華士族の禄制を設けて一時にこれを給与し、国庫が永年の負担を免かれようという方法であって、その原資に充(あ)てるために外国において公債を起こして正金銀(しょうきんぎん)の資本を備え、ついに紙幣兌換の事もこの資本にて行い得らるる見込(みこみ)を以て吉田少輔にヨーロッパ派遣が命じられたのである」

吉田が出立するとき、栄一は大蔵三等出仕に任じられて少輔の事務を取り扱うよう命じられた。大蔵卿大久保利通が長期不在の間、省中は大蔵大輔井上馨が全権、栄一がこれを補翼する次官として処理してゆく体制となったのだ。それではここで、栄一の回想から当時の大蔵省の状態を語ったくだりを引いてみよう。

「さて理財の要務というは、まず第一に大蔵省において国庫の歳入総額を詳明に調査した上で政府は歳出を議定すべきものであるが、その頃では諸藩の跡始末も次第に整理の緒について、全国の歳入額も精密とはいわぬけれどもまず四千余万円という統計も出来たから、是非とも政府に上申して彼の量入為出・・・・の原則に拠って各省の政務を節約して、一方においては剰余金を作り、而して紙幣兌換の制をも設けたいという精神を以て井上は切 に勉強しられた」(同)

傍点を付した四文字「量入為出」は、「入るを量って出だすをなす」という方針のことを言う(第27話参照)。

しかし、井上・渋沢コンビのこのような努力にもかかわらず、政費を請求する各省と余剰金を作りたいためその政費を抑制しようとする大蔵省の間には、ついに「一種の権限闘争の如き紛議が生ずる事となった」(同)

大蔵省は金配りをするお大尽、各省は大蔵省からいかに多く政費をもぎ取るかに腐心する無産階級といった役回りだけに、各省の期待するように政費を出さない大蔵省は、しみったれのお大尽として次第に憎悪の的となってしまったのだ。

「就中(なかんずく)司法卿の江藤新平(旧佐賀藩士・筆者注)などは平生井上と相好からぬ仲だからもっともはなはだしく攻撃の鉾先(ほこさき)を向けて来るようになった。この時太政官は三条(実美〈さねとみ〉)公が首相(正しくは太政大臣)で、西郷、板垣、大隈などが参議の職に列し万機輔弼(ばんきほひつ)の任に居られましたが、三条公は縉紳(しんしん/高貴な人)なり、西郷、板垣は門閥で、政治上にはすこぶる有力であったが、経済の事務にはなはだ疎略であった」(同)

そこで井上・渋沢コンビはかつての大蔵卿で大蔵省の実況にも通じている大隈重信が太政官にあって財政改良につき大蔵省のために尽力してくれることにひそかに期待しながら、各省の政費の節約政策を続行しつづけた。

ヨーロッパの「バンク」を見本に、日本初の国立銀行設立を目指す

その目的は、歳入から幾分か余した金額を正貨で蓄積し、紙幣兌換の制を設けて国立銀行にこれを発行させよう、という点にあった。栄一は井上からそのための取調べを命じられたが、国立銀行に関してはすでに伊藤博文が兌換紙幣を発行させる件につきアメリカからレポートを送ってきたことがあったので(第26話参照)、これが大いに役立った。

そこで栄一たちは国立銀行条例を布告することにし、8月25日に政府から布告してもらった、と『雨夜譚』にあるのは記憶違いで、日本が銀行条例を定めたのは同年11月15日のこと。欧米にいう「バンク」を「銀行」と邦訳したのは栄一と思われるので、「太政官日誌」第百号、同年11月15日の項(『改訂 維新日誌』第4巻)からその「御布告書」を引いてみよう(漢字片仮名混じり文からやや表記を改める)。

「貨幣流通の宜(ぎ)を得、運用交換の際に梗阻(こうそ)の弊(へい/差し障り)なからしむるは、物産蕃殖(はんしょく/繁殖)の根軸にして、富国の基礎に候ところ、従来御国内においても、為替、両替等を業といたし、欧亜各国に通称する(バンク)の業体に等しきものこれあるといへども、その方法の精確ならざると、施為(しい/行為)の陋劣(ろうれつ)なるより、充分人民の便益を得るに至らざるにつき、このたび政府の公債証書を抵当として、正金引替の紙幣を発行する、銀行創立の方法を制定しあまねく頒布せしめ候条、望みの者はその力に応じて願ひ出、右銀行創立いたすべし、もっともその創立の手続き、営業の順序等は、すべて別冊国立銀行条例、同成規の条款に照準し(照らし)、毎事確実に取扱ひ候やういたすべき事」

パリ滞在中にバンクの利便性を痛感した栄一は、帰国4年目にして国立銀行の創設をプロデュースすることになったのであった。