突然やってきた西郷隆盛の打算とは
すると「ある日の夕方」栄一の神田猿楽町の家へ参議の西郷隆盛が突然訪ねてきた(『論語と算盤』)。大蔵卿大久保利通は岩倉具視らとともに11月13日に横浜を出帆していたが、西郷は大久保に頼まれ、その留守中は自分が大蔵省の事務を監督することを承諾させられていた。そのため西郷は、大蔵省ナンバー4の栄一がどんな人物かを見定めるためにやってきた、と栄一は思ったかもしれない。
しかし西郷が口にした用向きは、二宮尊徳が旧相馬藩に導入した興国安民法だけは、財政改革をおこなうに当たっても廃止してくれるな、という以外な申し入れであった。しかも、栄一が興国安民法についてご承知かと問うと、「ソレハ一向に承知せぬ」(同)という返事。そこで同法についてすでに十分取り調べ済みの栄一は、詳しく説明してやった。
旧相馬藩180年間の歳入統計を60年ずつ3者に分け、その中間値に当たる60年間の平均歳入を同藩の平年の歳入とみなす。次に180年を90年ずつの2期に分けて収入の少ない方を平均歳入とみなし、藩の歳出額を決定する。もしその年の歳入が平均歳入予算以上の増収となったら、その剰余金によって新田を開発する。この説明を聞いて西郷はこう答えた。
「そんならそれは入るを量(はか)りもって出(いず)るをなすの道にも適(かな)い、誠に結構なことであるから、廃止せぬようにしてもよいではないか」
栄一は国家の財政を考えているのに、西郷は相馬藩に水面下で信頼され、藩法の存続に動いたのだ。前話で詳しく見たように、栄一はまだ国家予算が確立できていないというのに、陸軍に800万円、海軍に350万円を支出せよと「握(つか)み出し勘定」で高飛車に命じた大久保と衝突したばかりである。西郷も大久保とおなじタイプかと感じたのであろう、栄一はよい機会だと思い、自分の財政意見を述べて西郷の不見識を批判した。
「西郷参議におかせられては、相馬一藩の興国安民法は【略】ぜひ廃絶せぬようにしたいが、国家の興国安民法はこれを講せずに、そのままに致しおいても差し支えないとの御所存であるか、承りたい。苟(いやしく)も一国を双肩に荷われて、国政料理の大任に当らるる参議の御身をもって、国家の小局部なる相馬一藩の興国安民法のためには奔走あらせらるるが、一国の興国安民法を如何(いか)にすべきかについての御賢慮なきは、近頃もってその意を得ぬ次第、本末転倒の甚だしきものである」
言いも言ったり、逆ネジを食わせたりするとはこのことである。さて、これに対して西郷はどう反応したか。栄一は右引用部の直後にこう記している。
「西郷公はこれに対し、別に何とも言われず、黙々として茅屋(ぼうおく)を辞し還(かえ)られてしまった。とにかく、維新の豪傑のうちで、知らざるを知らずとして、毫(ごう)も虚飾の無かった人物は西郷公で、実に敬仰(けいぎよう)に堪えぬ次第である」
渋沢栄一から見ると、西郷は一流の人物だが大久保は二流の器でしかなかった、という人物評がよくわかる逸話ではないか。
しかし西郷が口にした用向きは、二宮尊徳が旧相馬藩に導入した興国安民法だけは、財政改革をおこなうに当たっても廃止してくれるな、という以外な申し入れであった。しかも、栄一が興国安民法についてご承知かと問うと、「ソレハ一向に承知せぬ」(同)という返事。そこで同法についてすでに十分取り調べ済みの栄一は、詳しく説明してやった。
旧相馬藩180年間の歳入統計を60年ずつ3者に分け、その中間値に当たる60年間の平均歳入を同藩の平年の歳入とみなす。次に180年を90年ずつの2期に分けて収入の少ない方を平均歳入とみなし、藩の歳出額を決定する。もしその年の歳入が平均歳入予算以上の増収となったら、その剰余金によって新田を開発する。この説明を聞いて西郷はこう答えた。
「そんならそれは入るを量(はか)りもって出(いず)るをなすの道にも適(かな)い、誠に結構なことであるから、廃止せぬようにしてもよいではないか」
栄一は国家の財政を考えているのに、西郷は相馬藩に水面下で信頼され、藩法の存続に動いたのだ。前話で詳しく見たように、栄一はまだ国家予算が確立できていないというのに、陸軍に800万円、海軍に350万円を支出せよと「握(つか)み出し勘定」で高飛車に命じた大久保と衝突したばかりである。西郷も大久保とおなじタイプかと感じたのであろう、栄一はよい機会だと思い、自分の財政意見を述べて西郷の不見識を批判した。
「西郷参議におかせられては、相馬一藩の興国安民法は【略】ぜひ廃絶せぬようにしたいが、国家の興国安民法はこれを講せずに、そのままに致しおいても差し支えないとの御所存であるか、承りたい。苟(いやしく)も一国を双肩に荷われて、国政料理の大任に当らるる参議の御身をもって、国家の小局部なる相馬一藩の興国安民法のためには奔走あらせらるるが、一国の興国安民法を如何(いか)にすべきかについての御賢慮なきは、近頃もってその意を得ぬ次第、本末転倒の甚だしきものである」
言いも言ったり、逆ネジを食わせたりするとはこのことである。さて、これに対して西郷はどう反応したか。栄一は右引用部の直後にこう記している。
「西郷公はこれに対し、別に何とも言われず、黙々として茅屋(ぼうおく)を辞し還(かえ)られてしまった。とにかく、維新の豪傑のうちで、知らざるを知らずとして、毫(ごう)も虚飾の無かった人物は西郷公で、実に敬仰(けいぎよう)に堪えぬ次第である」
渋沢栄一から見ると、西郷は一流の人物だが大久保は二流の器でしかなかった、という人物評がよくわかる逸話ではないか。
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