経営・ビジネスの課題解決メディア「経営プロ」

渋沢栄一の「士魂商才」 ビジネスリーダーなら知っておきたい「日本資本主義の父」の肖像

第28話:傲慢な上司・大久保利通の危険な経済感覚

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

渋沢栄一が大久保利通の傲慢さを嫌った理由

それにしても、渋沢栄一はどうしてここまで大久保を嫌ったのか。そう考えると思い出されるのは、栄一が17歳だった安政3年(1856)、岡部藩の若森という代官に五百両の御用金の上納を命じられた際のやりとりである。

御用金のことは一応父に伝えて、その後で返事をお伝えします、と応じた栄一に、「十七にもなって居るなら、モウ女郎でも買うであろう。シテ見れば、三百両や五百両は何でもないこと【略】、一旦帰ってまた来るというような、緩慢(てぬるい)事は承知せぬ」などと若森代官は「上から目線」の横柄な口調で反論した。対して栄一は、頑としておのれの主張を貫いたのであった(第2話参照)。

栄一が晩年まで「若森」という代官の名を忘れなかったのは、金がないから御用金をほしいくせに傲慢な口調で上納を命じる尊大な態度を激しく憎んだために違いない。このような愚かな代官とも真っ向から論争することを許されない農民階級に生まれた栄一は、その後武士から大蔵官僚へと転身した後も自身の理財の才をさらに磨き、大蔵省ひいては国家のために矜持(きょうじ)をもって働きつづけてきた。大久保はその栄一にかつての若森代官のような故なき傲慢さで接したため、すっかり白眼視されてしまったのである。

そこから大蔵省の将来にまで不安に感じた栄一は、浜松町から海賊橋(かいぞくばし/四日市青物町と萱場町の間)近くに転居していた井上馨に面会し、本稿に紹介した経緯を伝えて、明日辞表を出す、と告げた。すると井上は、ねんごろに助言してくれた。

「当冬大久保は暫時東京に不在と為ることとなつてゐる・・・・・・・・・・・・・から【中略】、この際一時耐忍(たいにん)して予算を調査し、且(か)つ目下の急務たる省の施設を促進し、而して後去ることにしては如何(いかが)。先ずそれまでは辞表は控へて置いた方が良からう」(『世外井上公伝』一)

「罷(や)めるときは、おれも一緒に罷める」とさえ井上はいった。栄一はこの言に従うことにするのだが、傍点部分は大久保が右大臣岩倉具視(ともみ)を特命全権大使とする遣米欧使節団(岩倉使節団とも)に加わって海外へ出張する、という意味である。

参議木戸孝允(たかよし/桂小五郎改め)、工部大輔となっていた伊藤博文ら46名に従者18名、留学生43名を加えた107名が横浜を出港したのは明治4年(1871)11月12日のことであった。

大久保利通の嘘と膨張する軍事費

ところが大久保が主張した「陸軍約800万円、海軍約250万円」という予算案は、明治3年7月に設置されて陸海軍を統括した兵部省において「予算総額850万円」とし、陸軍常額800万円、海軍常額50万円とされていたのに200万円ほど色を着けたものであった(篠原宏『開銀創設史』)。

ところが大久保不在となった明治4年10月から12月までの軍事費は、兵部省が陸軍省と海軍省にわかれたこともあり、陸軍省769万3,407七円、海軍省86万9,043円、計956万8,390円までふくらんでしまった(同書所収、「海軍経費一覧」より)。

この合計金額は歳出の16.5パーセントに相当し、そのパーセンテージはぐんぐん上がって20年後には歳出の29.82パーセントに達するに至る。近代日本は渋沢栄一のいう「量入為出」主義ではなく、大久保利通流の「握み出し勘定」主義によって軍事大国への道を歩んだのである。

お気に入りに登録

プロフィール

作家 中村 彰彦

作家 中村 彰彦

1949年栃木県生まれ。作家。東北大学文学部卒。在学中に「風船ガムの海」で第34回文學界新人賞佳作入選。卒業後1973~91年文藝春秋に編集者として勤務。1987年『明治新選組』で第10回エンタテインメント小説大賞を受賞。1991年より執筆活動に専念し、93年、『五左衛門坂の敵討』で第1回中山義秀文学賞を、94年、『二つの山河』で第111回(同年上半期)直木賞を、2005年に『落花は枝に還らずとも』で第24回新田次郎文学賞を、また2015年には第4回歴史時代作家クラブ賞実績功労賞を受賞する。近著に『幕末維新改メ』(晶文社)など。史実第一主義を貫く歴史作家。

ホームページ:中村彰彦公式サイト

関連記事

会員登録 / ログイン

会員登録すると会員限定機能や各種特典がご利用いただけます。 新規会員登録

会員ログインの方はこちら