
日本の資本主義の礎を築いた渋沢栄一。2022年に日本最高額紙幣の“顔”となる「日本資本主義の父」がどのように生まれたかを、史実第一主義の直木賞作家・中村彰彦氏が紹介する(編集部)。
新政府の無秩序な官僚機構を正す
渋沢栄一が民部省兼大蔵省に登庁するようになってすぐ気づいたには、「省中はただ雑踏を極むるのみで長官も属吏もその日の用に逐(お)われて」いるだけ、というとんでもない乱雑さであった(『雨夜譚』)。
諸藩から参与、貢士、徴士として登用された者はなるほど俊英ぞろいではあろうが、幕末に討幕運動に挺身したことはあっても実際に政務を見た経験のある者は少なかった。しかも、かつて尊王攘夷思想をよしとしていた者たちは復古主義者でもあるため、洋風の制度を取り入れるのを嫌がる傾向にあり、そうでない者たちも旧幕府のやり方を踏襲することを好まなかった。それが省中を無秩序にしている根本原因であったので、栄一は大輔の大隈重信に組織の改正掛を置くべきだ、と進言。明治2年(1869)12月末には太政官がこれを許し、租税司からは栄一自身が改正掛に選ばれた。監督司、駅逓(えきてい)司などの部署からは複数の改正掛が任命され、栄一を掛長として改正局が立ちあげられた。
組織の人・栄一らしい発想だが、改正局に長官は置かず、卿・大輔・少輔が会議に出席しても身分の上下に関わりなく明朗公平に研究・合議をすすめるよう工夫したのも栄一であった。改正局が栄一の任官後数10日にして省中の調査機関でありトップの諮問機関でもあると定められたのは、栄一がいわゆる【仕事の早い男】だったことを物語ってありあまる。
諸藩から参与、貢士、徴士として登用された者はなるほど俊英ぞろいではあろうが、幕末に討幕運動に挺身したことはあっても実際に政務を見た経験のある者は少なかった。しかも、かつて尊王攘夷思想をよしとしていた者たちは復古主義者でもあるため、洋風の制度を取り入れるのを嫌がる傾向にあり、そうでない者たちも旧幕府のやり方を踏襲することを好まなかった。それが省中を無秩序にしている根本原因であったので、栄一は大輔の大隈重信に組織の改正掛を置くべきだ、と進言。明治2年(1869)12月末には太政官がこれを許し、租税司からは栄一自身が改正掛に選ばれた。監督司、駅逓(えきてい)司などの部署からは複数の改正掛が任命され、栄一を掛長として改正局が立ちあげられた。
組織の人・栄一らしい発想だが、改正局に長官は置かず、卿・大輔・少輔が会議に出席しても身分の上下に関わりなく明朗公平に研究・合議をすすめるよう工夫したのも栄一であった。改正局が栄一の任官後数10日にして省中の調査機関でありトップの諮問機関でもあると定められたのは、栄一がいわゆる【仕事の早い男】だったことを物語ってありあまる。
人材募集と新制度構築
ほかの部署にあって改正掛を兼務した人々を見るうちに栄一が感じたのは、改正局にもっと人材が必要だ、ということであった。そこで明治3年(1870)春、栄一は大隈に申請して以下のような静岡藩士たちを登用してもらった。主な顔ぶれは以下の通り。
赤松則良(あかまつ のりよし):のち海軍中将、貴族院議員
前島 密(まえじま ひそか):のち駅逓頭(えきていのかみ)、関西鉄道会社・北越鉄道会社社長、貴族院議員)
杉浦愛蔵(靄山/あいざん):のち駅逓正、内務省大書記官地理局長
塩田三郎:のち清国公使
ほかに文筆、技芸、語学に長じる者も採用し、その得意とするところを業務に生かすようにしたため省務は円滑にこなされるようになり、栄一はすこぶる愉快を覚えたという。
以下は、栄一が改正掛長として関与した新制度の数々である。
[租税]
年貢米やその他の物納を通貨で収税する大方針を立てる。
[駅逓法の改正]
宿場ごとに伝馬(てんま/馬の提供)・助郷(すけごう/近在からの労働力の提供)を置いた旧幕府の制度を廃し、駅逓司(のちの駅逓寮)以外の信書の逓送を禁じ、郵便制度を確立した。担当者は駅逓権正(ごんのかみ)に登用された前島密。
[度量衡]
改正掛に統一法を調査させる。
[全国測量]
着手の順序と経費につき調査。
その他の新制度については、うまくまとめられている幸田露伴『渋沢栄一伝』に代弁してもらうことにしよう。
「貨幣の制度、禄制の改革、戸籍の編成、これらの事も調査論考し、賤民の呼称と差別取扱を廃し、国家に功徳(くどく)あるものを賞して勲章・賞牌を授くるの制を立てる等、数年の後に至つて行はれたる諸般の議を立てた。電信、鉄道を興すに就いては、外債を起すことに絡まつて、政府内にも異論の有つたのを、啓蒙的に大(おおい)に論破して、遂に其事を成立たしめたのには、改正掛の力甚だ多かつたのであつた」
功ある者に勲章を与える制度を提案したことについては、栄一がマルセイユ滞在中、大衆の見物するなかで軍人が叙勲される姿を眺め、いたく感心したことが思い出される(『航西日記』)。賞牌を与える制度については、パリ万博においてみごとな工芸品にグランプリ、金・銀・銅メダル、褒詞のいずれかが与えられたことを参考にしたに違いない。栄一は民部省兼大蔵省の改正掛長というポストを得たことにより、フランスで知ったシステムのうち有用と感じたものを国政に生かせるようになったのである。
「公私混同」などという表現もあるように、一般に「公」(官、公務)と「私」(民、私事)とは対立する概念として受け止められることが多い。しかし、この時代の栄一はフランスで私的に身につけた知識を公務に生かす、という幸福に浸ったのであった。
赤松則良(あかまつ のりよし):のち海軍中将、貴族院議員
前島 密(まえじま ひそか):のち駅逓頭(えきていのかみ)、関西鉄道会社・北越鉄道会社社長、貴族院議員)
杉浦愛蔵(靄山/あいざん):のち駅逓正、内務省大書記官地理局長
塩田三郎:のち清国公使
ほかに文筆、技芸、語学に長じる者も採用し、その得意とするところを業務に生かすようにしたため省務は円滑にこなされるようになり、栄一はすこぶる愉快を覚えたという。
以下は、栄一が改正掛長として関与した新制度の数々である。
[租税]
年貢米やその他の物納を通貨で収税する大方針を立てる。
[駅逓法の改正]
宿場ごとに伝馬(てんま/馬の提供)・助郷(すけごう/近在からの労働力の提供)を置いた旧幕府の制度を廃し、駅逓司(のちの駅逓寮)以外の信書の逓送を禁じ、郵便制度を確立した。担当者は駅逓権正(ごんのかみ)に登用された前島密。
[度量衡]
改正掛に統一法を調査させる。
[全国測量]
着手の順序と経費につき調査。
その他の新制度については、うまくまとめられている幸田露伴『渋沢栄一伝』に代弁してもらうことにしよう。
「貨幣の制度、禄制の改革、戸籍の編成、これらの事も調査論考し、賤民の呼称と差別取扱を廃し、国家に功徳(くどく)あるものを賞して勲章・賞牌を授くるの制を立てる等、数年の後に至つて行はれたる諸般の議を立てた。電信、鉄道を興すに就いては、外債を起すことに絡まつて、政府内にも異論の有つたのを、啓蒙的に大(おおい)に論破して、遂に其事を成立たしめたのには、改正掛の力甚だ多かつたのであつた」
功ある者に勲章を与える制度を提案したことについては、栄一がマルセイユ滞在中、大衆の見物するなかで軍人が叙勲される姿を眺め、いたく感心したことが思い出される(『航西日記』)。賞牌を与える制度については、パリ万博においてみごとな工芸品にグランプリ、金・銀・銅メダル、褒詞のいずれかが与えられたことを参考にしたに違いない。栄一は民部省兼大蔵省の改正掛長というポストを得たことにより、フランスで知ったシステムのうち有用と感じたものを国政に生かせるようになったのである。
「公私混同」などという表現もあるように、一般に「公」(官、公務)と「私」(民、私事)とは対立する概念として受け止められることが多い。しかし、この時代の栄一はフランスで私的に身につけた知識を公務に生かす、という幸福に浸ったのであった。
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