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渋沢栄一の「士魂商才」 ビジネスリーダーなら知っておきたい「日本資本主義の父」の肖像

第24話:民部省兼大蔵省へ出仕する

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渋沢栄一が優れた才能を発揮しつづけられた本当の理由

ここでおさらいしておくと、そもそも渋沢栄一が農民であることをやめて尊攘激派たらんとしたのは、次のような論理で新しい国家について考えたためであった。

「大騒動を起したら、その騒動によって幕府が斃(たお)れて国家が混乱する、国家が混乱すれば忠臣も顕われ、英雄も出てこれを治める」(『雨夜譚』)

長州藩の馬関攘夷戦、薩摩藩の薩英戦争など実際の攘夷実践は成功に至らなかったが、全体として幕末は栄一の予測した通りとなって幕府は瓦解し、ついに新政府が成立した。ならば日本人は英雄ならずとも新国家の建設に力を尽くすべきだ、とする議論は栄一の心に響くものがあった。「しからば」と栄一は答えた。「駿河へ帰る意念を止めて朝廷に微力を尽くしましょう」(同)

こうして栄一は、官途に就くことになったのであった。

ここまで書いてきて筆者が感じるのは、渋沢栄一という人間の運の良さである。尊攘激派として行動を起こす前にその限界を悟り、追われる身となった可能性を考えて京へ流れようとしたときには、一橋家の用人平岡円四郎が栄一と渋沢成一郎を一橋家の家臣として採用してくれた。

同家の当主慶喜は栄一の理財家としての才能を高く評価してくれたばかりか、慶喜が将軍、栄一が幕臣となってからは民部公子徳川昭武をパリ万博に派遣するにあたってかれに同行を命じてくれた。ヨーロッパからの帰国直後、昭武が水戸藩を相続して栄一を藩士として採用しようとしたときにも、引退し、前将軍となって駿府に来ていた慶喜がその身を案じ、ずっと静岡藩にいられるよう水面下でとりはからってくれた。

そして同藩のうちで商法会所改め常平倉の経営に乗り出している間に太政官に名を知られ、大隈重信の新国家建設の熱意に打たれて民部省出仕を決断する――。

ただし、これらの人生のいくつかの曲がり角でつねに栄一に救いの手が差しのべられたように見えるのは、かれが単に強運の持ち主だったからではない。平岡円四郎が栄一を攘夷思想にかぶれていると知りながら一橋家の家臣として採用したのは、交際する間にかれの有能さに気づいていたためである。慶喜が栄一を高く評価したのは理財家としての才能と私心なき性格を気に入ったためであり、伊達宗城らが栄一の存在に気づいたのはフランスとの事務折衝の巧みさゆえのこと。

「天道に私(わたくし)なし」(天道は公平でえこひいきはない)

とは『礼記』に見える表現だが、栄一はいつどのような職務を与えられても創意工夫を怠らず、結果として主家を富ますよう努めつづけたことにより、これらの幸運を引き寄せたのである。

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プロフィール

作家 中村 彰彦

作家 中村 彰彦

1949年栃木県生まれ。作家。東北大学文学部卒。在学中に「風船ガムの海」で第34回文學界新人賞佳作入選。卒業後1973~91年文藝春秋に編集者として勤務。1987年『明治新選組』で第10回エンタテインメント小説大賞を受賞。1991年より執筆活動に専念し、93年、『五左衛門坂の敵討』で第1回中山義秀文学賞を、94年、『二つの山河』で第111回(同年上半期)直木賞を、2005年に『落花は枝に還らずとも』で第24回新田次郎文学賞を、また2015年には第4回歴史時代作家クラブ賞実績功労賞を受賞する。近著に『幕末維新改メ』(晶文社)など。史実第一主義を貫く歴史作家。

ホームページ:中村彰彦公式サイト

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