第23話:商法会所の影響で太政官から上京命令が言い渡される

日本の資本主義の礎を築いた渋沢栄一。2022年に日本最高額紙幣の“顔”となる「日本資本主義の父」がどのように生まれたかを、史実第一主義の直木賞作家・中村彰彦氏が紹介する(編集部)。

尾高新五郎を静岡藩に呼び寄せる

肥料買い付けのため東京へ出張中だった栄一のもとへ、その美貌の妻千代と長女歌子をつれてきたのは尾高新五郎であった。栄一の少年時代の学問の師であり攘夷計画の同志でもあった新五郎は、渋沢成一郎とともに彰義隊に参加。やはり成一郎とともに同隊を離れて振武軍の一員として戦ったが、甥の尾高平九郎が討死したためか、蝦夷地への脱走には参加することなく帰京してひっそりと暮らしていた。

栄一は父・市郎右衛門からそうと聞いて、ふたたび新五郎を世に出してやりたい、と思ったのであろう。妻子とともに新五郎をも静岡へ同行し、静岡藩に採用してもらうことになった。

栄一一家は紺屋(こうや)町の商法会所内の家を住居とし、栄一自身は抜群の経営手腕を高く評価されて、これまでの御勝手懸り老中手付というあいまいな身分から右筆各に席次を進められた。尾高新五郎も商法会所で働きはじめ、栄一の親戚や振武軍で成一郎や新五郎の同志だった者たちも集まってきたので、この頃ようやく栄一はほっとしたようだ。

やや時が流れて明治3年5月18日を迎えると、箱館五稜郭に籠っていた蝦夷地政府軍が陸海軍の総攻撃によって降伏。戊辰戦争はまったくおわり、成一郎は榎本武揚以下の幹部たちとともに獄舎につながれることになった。少年時代からまじわった新五郎を静岡に招いたほど情誼心の厚い栄一のことだから、成一郎が不潔な獄舎のうちで獄死してしまわないか、と案じたに違いない。

肝いりの「商法会所」にクレーム

ところが5月中に、静岡藩庁が商法会所にクレームをつけてきた。この件を栄一は、下のように回想している。

「藩庁から、商法会所として藩の資本で商業をするのは朝旨(ちょうし)に悖(もと)るから事実はともかくもその名称を改正しろという内意があって、種々の評議をした上で、常平倉(じょうへいそう)という名称に改めました」(『雨夜譚』)

貸し下げられた金札を殖産興業に用いるのは政府の意向に従ってのことだというのに、どうしてこんなクレームをつけられねばならないのか。この点について栄一はなにも語り残していないが、幸田露伴は一歩踏みこんでこう考えている。

「それは金札の差を政府では認めたく無い方針だが、実際に於いては静岡商法会所でも之を認めぬ訳にはゆかぬことが一原因、其他の原因も加はって、厄介な紛議が起こったのであった」(『渋沢栄一伝』)

前話で見たように、政府は明治元年12月4日の時点で金札は時価通用を許し、公納に用いる場合は金札120円を正金100円の相場としていた。だから下線部は事実に反するが、これも前述したように栄一たちは東京で肥料、大阪で米穀を買いこむときは、金札をいち早く正金に換金してこちらを用いた。

おそらく政府のなかにこの〈両替作戦〉に気づき、金札の流通を図る政府の方針に反する動きとして告発した者がいた。静岡藩が政府からそれを伝えられ〈両替作戦〉を積極的におこなっている商法会所にクレームをつけざるを得なくなった。そこで藩庁と栄一たちは、商法会所から商売の臭いを消すべく所名を「常平所」と改めたのである。

これは会計官副知事として金札を発行させた由利公正が、金札と正金の二重相場を現出させてしまった責任をとって明治2年2月に辞表を提出したこと、それを受けて後任となった大隈重信(おおくま しげのぶ)が、同年4月29日、「近く鋳造に著手(着手)の新貨幣通用の暁は金札と交換せしむべければ、金札に相場を立つるが如きことはなかるべき旨」(『維新史』第5巻)と布達したことも大きく関わっていたようだ。

あるいは清国で印刷された金札の偽造紙幣が出まわったことも「厄介な紛議」の「其他の原因」にふくまれるものかもしれない。

ところで商法会所のあらたな所名となった常平倉とは、政府が米価の安いときも高く買い入れ、高いときには貯蔵米を安く売り出して米価を安定させるために設けられた米倉のことで、古代中国の王朝が前漢だった時代に考案された。にほんでは奈良時代の天平宝字3年(795)に諸国に設置されたのが、のちには米価の安定よりも貧民救済が主要な目的となった。

江戸時代にこの手法をよく取り入れていたのは会津藩であり、「社倉(しゃそう)制度」と呼ばれていたこのシステムについては中公新書『保科正之』に詳述しておいたので、このような制度に関心にあるむきは同書をご覧いただきたい。

ただし栄一たちの米穀の売り買いは、基本的に安く買い入れて高く売り、その差額を収益とするものであった。しかも、肥料の貸しつけもおこなっていた。とても常平倉とはいえない商業活動であったが、栄一もこの点は認めていて、「真の常平という趣意には応じがたくて、つまりその名を替えたまででありました」(『雨夜譚』)と回想している。

栄一たちは、「常平倉」という名称を隠れ蓑にして商業活動をつづけるというたくましさも身につけていたのである。

この名称変更騒ぎと並行して、栄一はきわめて面倒なことを処理しなければならなかった。それはすでに述べたフランス出張に関わることで、栄一はまず出発に際し、旧幕府のフランスの商社に対する負債8万フランを徳川昭武用の経費から支払ったことがそもそもの発端となった。

こうして昭武一行が日本を留守にする間に幕府が倒れ、明治新政府が発足したことは前述の通り。ところが栄一は帰国してから新政府のその債務8万フランを弁償してくれると聞いたので、在仏の名誉領事フロリ・ヘラルトに手紙を書き、8万フランの返却を求めた(幸田露伴『渋沢栄一伝』)。

これはフランスの商社がフロリ・ヘラルト経由で昭武に8万フランを返してくれれば、別途、新政府から同額を支払うと伝えた、ということ。しかし、フロリ・ヘラルトから来た返事は、「日本政府から公式の命令がない限り、要求には応じ難い」というものであった。

フロリ・ヘラルトは同様の返書を新政府にも与えたようだが、なにせ新政府の要人たちは幕末に尊王攘夷派だった者たちばかりだから、外国がらみの事務をどう処理すればいいのかわからない。静岡藩に問い合わせたのは栄一は静岡へ移住したことを知っていたためで、栄一は6月中に東京に出、1ヵ月半も逗留してあれこれ説明することになった。

以上が露伴の記述するところだが、栄一自身は別件でもフロリ・ヘラルトとやりとりする必要があったとり、その件とはパリで徳川昭武が住んでいた家と家財什器類のことだとする。これらはいずれも昭武の私有物であり、栄一は帰国前、フロリ・ヘラルトにこれらの売却を依頼しておいた。だから栄一は、フロリ・ヘラルトが約束通りこれらを売却してその代価を送金してくれたら昭武に届けるつもりだったはずである。

また、新政府に対して栄一は、こちらの件に旧幕府は無関係だという点を説明し、了解してもらわねばならなかった。それが新政府側には理解できない。「では、こういう書類を出せ」、「これこれの証明書を作れ」と煩多(はんた)な注文を出したため、栄一の東京滞在は延びに延びてしまったのである。

最後に栄一は、パリの家の家具什器類は昭武の私有物と認められ、フロリ・ヘラルトが売却代金として送ってきた「1万5000両ばかり」を受け取った、と『雨夜譚』にあるのは、その金額を折り返し昭武のもとへ送ったことを省略しているのであろう。

ただし、ここで筆者が「おや?」と思うのは、栄一も露伴も8万フランをやりとりする話がその後どう進展したのか、という点にまったく触れていないことだ。しかし露伴は、「時間はかゝつたが此事は八月に入つて一切埒(らち)明き、フロリ・ヘラルトよりの送金を待つのみの事となつて、(栄一は)八月十五日静岡へ帰省した」と書いている。フロリ・ヘラルトは昭武への返却金8万フランを栄一に送るのと並行して新政府から改めて八万フランと「1万5000両ばかり」を受け取り、問題は円満に解決した。

ここで少し新政府の骨格を見ておくと、慶応4年1月に政府の最高官庁として「太政官代」が設けられ、その下に諸部局が所属した。だが、明治2年になると古代の律令制にならって早くも官制改革がおこなわれ、神祇官・太政官に2官と民部・兵部(ひょうぶ)・刑部(ぎょうぶ)・宮内(くない)・外務の八省が設置された。これがいわゆる「二官八省の制」であり、栄一にあれやこれやの説明を求めたのは外務省にほかならない。

しかし、「壁に耳あり、障子に目あり」ではないが、栄一が自覚しないうちに外務省に出入りして面倒な事務を粛々と処理してゆくその手際の良さは、フランス語とフランス事情に通じている珍しさと相俟(あいま)ってほかの省からもひそかに注目されていた。

それがはっきりしたのは、栄一がまた常平倉の仕事にうちこみ、あと2、3年たったらしっかりした商社に育つ、という希望を抱いていた明治2年10月21日のことであった。太政官と八省および諸国との連絡にあたる弁官(べんかん/庶務・雑務にあたる役人)から静岡藩庁に栄一宛の召状(めしじょう)が届き、すぐに東京へ出るよう命じてきたのである。

新政府に「自分はこれまで取掛(とりかか)った事務も多いから至急に上京は出来ぬ、何卒(なにとぞ)半ヵ月も御猶予を願いたい」(『雨夜譚』)と藩庁に伝えると、「イヤ、それはならぬから直様(すぐさま)出京しろ」(同)と大久保一翁から厳達されてしまった。

静岡藩が朝旨に悖り、有用な人材を隠蔽しているなどと思われたら藩主に御迷惑だ、というのだ。やむなく栄一がふたたび上京したのは、12月初旬のことであった。