日本から援助が途切れる中、1年8ヵ月分の留学費用を捻出した資産運用手腕
その結果、昭武以下の帰国スケジュースは次のように決定された。荷物類は10月4日マルセイユ発のイギリス船で輸送する。一行は10月11日同港発のフランス船で帰国する。
一行の横浜出発は1867年2月15日のことだったから、マルセイユを後にするまでで1年8ヵ月に及ぶ大旅行である。当然、勘定役たる渋沢栄一は金銭の出納に神経を使った。幸田露伴『渋沢栄一伝』はこの方面にもよく目配りしているので、これによって主たる数字を押さえておこう。
出発時の昭武用御手許金(おてもときん)は2,000両(のち数回追加)。フランス帝室および政府に対する費用は外国奉行の支払い。昭武が公務を終え留学生となった頃から本国よりの送金途絶えがちとなり、栄一の苦心ひとかたならず。だが勘定奉行小栗忠順がオランダ貿易会社経由で毎月2万5,750フラン(5,000両)の為替を送ってくれたので、1ヵ月の定額としてこれを使用。それでも1868年を迎えると経費節減の必要に迫られ、馬車は昭武用の1輛以外売却、使用人のうち女中、小使いは解雇し、毎月の出費を2万フラン以内に制限。残金を銀行預金にしたり、鉄道債券・公債証書買い入れに充てたりして利殖の道を講じた。
ベルゴレイの家を借りた際には、家主の注文で火災保険にも入ったし、昭武の名で貧民救済事業に寄付するときは、その事業はどんな組織と方法によって経営されているのかも頭に入れた。
露伴は栄一の上のような経済活動を紹介したあと、栄一は「スポンジの湿所に置かれた如く」経済知識を吸収した、と書いている。昭武一行の留学生活を安定させる上でも、パリの金融業界は大学のように多くのことを栄一に教えてくれたのである。
さらに最初の帰国命令が来た頃、旧幕府は為替ではなく正金(しょうきん/現金)2万両をオランダ貿易会社に払いこんでくれた。これは、形勢が変化して旧幕府が為替尻(かわせじり/為替残金)の支払い不能となることもあり得る、と考えて一行の生活費数ヵ月分を送ってくれたのである。
しかも旧幕府からの月に5,000両の送金は1968年4~5月まで受け取ることができたので、これらの金によって栄一は留学生23人を先に帰国させても、昭武の留学費用をなお2年間くらいはまかなえる目算が立っていた。しかし先述のような動きの果てに10月に帰国することになり、栄一はナポレオン3世への訣別の挨拶、フランス外務省とのやりとりから、借家の始末、鉄道債券・公債証書、諸什器・家具の売却に至るまでを、フロリ・ヘラルトに処理してもらった。
小栗忠順や榎本武揚の海外長期出張後の旅費の精算は、出費の合計と残金との差がわずかしかないみごとなものだったと前述した(第12話)。栄一の場合は留学生23人分を支出できただけでもみごとなのに、フロリ・ヘラルト経由で鉄道債券・公債証書、什器・家具の売却利益を得ていた可能性が高い。
昭武とのフランス留学は中断せざるを得なかったものの、栄一はアジアの植民地とヨーロッパの本国の関係からそのヨーロッパの金融業界の事情までをよく理解した帰朝者となることができたのであった。
一行の横浜出発は1867年2月15日のことだったから、マルセイユを後にするまでで1年8ヵ月に及ぶ大旅行である。当然、勘定役たる渋沢栄一は金銭の出納に神経を使った。幸田露伴『渋沢栄一伝』はこの方面にもよく目配りしているので、これによって主たる数字を押さえておこう。
出発時の昭武用御手許金(おてもときん)は2,000両(のち数回追加)。フランス帝室および政府に対する費用は外国奉行の支払い。昭武が公務を終え留学生となった頃から本国よりの送金途絶えがちとなり、栄一の苦心ひとかたならず。だが勘定奉行小栗忠順がオランダ貿易会社経由で毎月2万5,750フラン(5,000両)の為替を送ってくれたので、1ヵ月の定額としてこれを使用。それでも1868年を迎えると経費節減の必要に迫られ、馬車は昭武用の1輛以外売却、使用人のうち女中、小使いは解雇し、毎月の出費を2万フラン以内に制限。残金を銀行預金にしたり、鉄道債券・公債証書買い入れに充てたりして利殖の道を講じた。
ベルゴレイの家を借りた際には、家主の注文で火災保険にも入ったし、昭武の名で貧民救済事業に寄付するときは、その事業はどんな組織と方法によって経営されているのかも頭に入れた。
露伴は栄一の上のような経済活動を紹介したあと、栄一は「スポンジの湿所に置かれた如く」経済知識を吸収した、と書いている。昭武一行の留学生活を安定させる上でも、パリの金融業界は大学のように多くのことを栄一に教えてくれたのである。
さらに最初の帰国命令が来た頃、旧幕府は為替ではなく正金(しょうきん/現金)2万両をオランダ貿易会社に払いこんでくれた。これは、形勢が変化して旧幕府が為替尻(かわせじり/為替残金)の支払い不能となることもあり得る、と考えて一行の生活費数ヵ月分を送ってくれたのである。
しかも旧幕府からの月に5,000両の送金は1968年4~5月まで受け取ることができたので、これらの金によって栄一は留学生23人を先に帰国させても、昭武の留学費用をなお2年間くらいはまかなえる目算が立っていた。しかし先述のような動きの果てに10月に帰国することになり、栄一はナポレオン3世への訣別の挨拶、フランス外務省とのやりとりから、借家の始末、鉄道債券・公債証書、諸什器・家具の売却に至るまでを、フロリ・ヘラルトに処理してもらった。
小栗忠順や榎本武揚の海外長期出張後の旅費の精算は、出費の合計と残金との差がわずかしかないみごとなものだったと前述した(第12話)。栄一の場合は留学生23人分を支出できただけでもみごとなのに、フロリ・ヘラルト経由で鉄道債券・公債証書、什器・家具の売却利益を得ていた可能性が高い。
昭武とのフランス留学は中断せざるを得なかったものの、栄一はアジアの植民地とヨーロッパの本国の関係からそのヨーロッパの金融業界の事情までをよく理解した帰朝者となることができたのであった。
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