経営・ビジネスの課題解決メディア「経営プロ」

渋沢栄一の「士魂商才」 ビジネスリーダーなら知っておきたい「日本資本主義の父」の肖像

第19話:パリ万博での日本文化の高評価と、激震する国内情勢

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

昭武の欧州周遊で内輪もめが勃発

それでは、徳川昭武の供として同行した水戸藩士7人の言動はどうだったのであろうか。

「水戸の藩士の幾人かは飽迄(あくまで)我が旧形式、旧精神の厳存を以って忠誠と心得るやうな人だつたから、旅館のボーイの挙動を非礼だとして大声叱責したり、動物園を観ても徒(いたずら)に珍禽奇獣を集むるの愚と為(な)し、夜会劇等に臨みても苦々しい淫蕩驕奢(いんとうきょうしゃ)の事と為し、一概に外国風を斥(しりぞ)けるので、一行の者を困らせることもあつた。栄一は原市之進が自分を推薦したのもこれあるが為だと、何度も調停役を取つた」(幸田露伴『渋沢栄一伝』)

ところが8月30日、万博の行事もあらかたおわって諸国の王たちも順次帰国したので、徳川昭武にスイス、オランダ、ベルギー、イタリア、イギリスなどを歴訪してもらうことになった時点で問題が発生した。

この旅に大勢の随行員があっては目立ちすぎるし、ことに水戸藩士7人は大きな髷を結って長い刀を差しているから、外国人から見ると異形な出立ちで体裁が悪い。そこで昭武の供の人数を7人から3人に減らしたい、と御傳役の山高から菊地平八郎に申し入れたところ、井阪泉太郎、加治権三郎、服部潤次郎らが怒り出した。

われわれは将軍家(慶喜)の思し召しで公子(昭武)のお供をしているのであり、外国の国情を観て来いとのお沙汰であったかたらにはどこまでもお供をする、というのだ。山高に頼まれて栄一が7人と交渉することになり、「おのおの方が強いて全員での随行を主張して外国奉行配下の方々の命令に従わぬならば、帰朝するより仕方がない。自分も同行して帰りましょう」というと風向きが変わり、いたずらに帰国するのは残念千万だ、と菊池は答えた。

そこで栄一が、ならば7人のうち3人ずつが交代でお供をすることにして、スイス―オランダ―ベルギーで1回、イタリアで1回、次にイギリスで1回と顔触れを変えていくのはどうだ、と提案すると7人は同意したのでようやくこの問題は片付いた。

「スイスへの巡回は8月の初旬で、それからオランダ、ベルギーの両国をも歴覧せられて、9月の中旬にフランスへ帰り、その月末になってまたイタリーに旅行した。【略】イタリーの巡回は10月の末に終って、その23日にフランスへ帰り、さらに11月の初めからイギリスへ巡回されたが、パリへ御還(おかえ)りになったのはその月の下旬でありました」(『雨夜譚』)

パリへもどったのは西暦11月19日のこと、と『巴里御在館日記』にあり、以後栄一は語学教師を雇い入れ、昭武、山高石見守、自分と水戸藩士7人の計10人で本格的な留学生活に入った。栄一は勉強の合間に幕府へ現況報告の手紙を認(したた)めたり日記を書いたりせねばならなかったが、昭武の1日のスケジュールは下のようなものであった。

毎朝7時、乗馬の稽古
9時、帰館して朝食
9時半、教師が来て、午後3時まで語学と文法の勉強
以下、翌日用の下読み、作文、暗誦など

ところが、12月21日、水戸藩士4人を病気のため帰国させたい、と菊地平八郎から願書が差し出され、4人は明けて1868年(慶応4)1月15日にパリを去っていった。その4人とは井阪泉太郎、加治権三郎、皆川源吾、服部潤次郎のこと。かれらは留学生になどなる気はなかったから、仮病を使って帰国したのである。

パリにて幕府の大政奉還・激動の日本情勢を知る

それに先立つ1867年10月、「日本の京都において大君が政権を返上した」とする大政奉還のニュースが「フランス新聞」に出た。ナポレオン3世から昭武の付添として派遣されていたビチット陸軍大佐は虚説でしょうといったが、栄一は京都の困難な政情をよく承知していたので、新聞報道は事実であろう、と冷静に受け止めていた。

慶応3年(1867)10月15日におこなわれた大政奉還が、その月のうちにフランスの新聞で報じられているとはずいぶん早い。『巴里御在館日記』によると、幕末維新の大変革は次のような順序で栄一の知るところとなった。

1868年3月20日。幕府から届いた「御用状」によって薩摩藩邸焼き打ち事件の発生を知る。これは慶応3年12月25日(1868年1月19日)、三田の薩摩藩邸に集まった不逞浪士たちの不法行為に怒った江戸市中見廻りの庄内藩が、フランス軍事顧問団のジュール・ブリューネ砲兵大尉の指導により、同藩邸に大砲を打ち込んで浪士たちを潰走させた事件である。

同日、「フランス新聞」は大君が大坂での一戦に敗れて江戸へ下ったと報じた。これは慶応4年1月3日に鳥羽伏見の戦いがはじまり、徳川慶喜は6日に大坂城から海路江戸へ逃れたというニュースである。

3月24日。「フランス新聞」に大君が辞職し、日本国内は新政府が鎮撫しようとしている、との記事があった。また、2月中に日本の帝(みかど/明治天皇)があらたに各国に使節を派遣し、改めて和親を確認する支度をはじめた、とも報じられた。午後1時にあらわれた山高石見守も、このニュースをカッションから聞いて承知しているとのこと。栄一は別の宿にいる駐仏公使・栗本安芸守(あきのかみ/号は助雲)を訪ね、このニュースを伝えてあれこれやりとりした。

すると、この夜の「フランス新聞」に日本の情勢についての続報が出た。大君は正月15日頃江戸へ帰府したが、今後大君が新政府軍をと再戦するのか和議を結ぶのか、あるいは西国筋の大名たちが合従して江戸を伐とうとするのかはまだ不明である、と。

上野介(こうずけのすけ)の受領名を持つ小栗忠順とともに親仏派の幕臣として知られた栗本安芸守は、外国奉行、箱館奉行、勘定奉行などを歴任した人物。昨年8月に渡仏し、向山隼人正に代わって駐仏公使に就任していた。その栗本公使は、4月6日午後9時、昨夜カッションから聞いた「横浜新聞紙」の報道を栄一らに伝えて、意見を述べた。

上さまの御帰府後、薩長軍は京都、大坂から兵庫にまで充満にしているから、われらとしては公子の進退と留学生の取り扱い方その他についてよく考えねばならない、と。

鳥羽伏見の戦いに旧幕府軍が敗北したことにより、その3ヵ月後、栄一たちはにわかに出処進退の判断を迫られることになったのである。

お気に入りに登録

プロフィール

作家 中村 彰彦

作家 中村 彰彦

1949年栃木県生まれ。作家。東北大学文学部卒。在学中に「風船ガムの海」で第34回文學界新人賞佳作入選。卒業後1973~91年文藝春秋に編集者として勤務。1987年『明治新選組』で第10回エンタテインメント小説大賞を受賞。1991年より執筆活動に専念し、93年、『五左衛門坂の敵討』で第1回中山義秀文学賞を、94年、『二つの山河』で第111回(同年上半期)直木賞を、2005年に『落花は枝に還らずとも』で第24回新田次郎文学賞を、また2015年には第4回歴史時代作家クラブ賞実績功労賞を受賞する。近著に『幕末維新改メ』(晶文社)など。史実第一主義を貫く歴史作家。

ホームページ:中村彰彦公式サイト

関連記事

会員登録 / ログイン

会員登録すると会員限定機能や各種特典がご利用いただけます。 新規会員登録

会員ログインの方はこちら