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渋沢栄一の「士魂商才」 ビジネスリーダーなら知っておきたい「日本資本主義の父」の肖像

第18話:フランスという名の「大学」体験【後編】

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新都・東京のグランドデザインを学ぶ

渋沢栄一は実務家肌の人間でもあるから、社交界の雰囲気を知り、名所旧跡を見るだけでは満足しない。5月27日には、パリ市の地下に張り巡らされた上水道、下水道、ガス道を視察した。

「この地下道の建設は近年のことにて、いまだ町の末は増築中なり。市街地往来の下に別にトンネルを掘り抜き、その内部両側を人が立って歩けるようにして一条の川を通し、市中の人家の汚水は皆この川に注ぐ。各所に注ぐ元ありて滝の如くに落つる。トンネル上部には鉄パイプが通じていて、飲用水を遠い水源から引く。細い鉄パイプもあり、これはガスを釜元から取って各家に分(わか)つ。所々明り取りの穴あれども委(くわ)しくは灯を点ぜざれば、見えがたし。余は城の裏手にある市街より鉄蓋(てつがい/マンホールの蓋)を披(ひら)き、石段を下りて入る。【略】屈曲十五、六丁にして川幅広くなる。是(これ)より舟に重り、凡(およそ)半里許(ばかり)にして城西一箇の市街に上る。トンネルの中陰々として臭気鼻を穿(うが)つ。漸(ようや)く日を望むを得て大(おおい)に快然たり。此の地下道、人家の汚物を流せるより常に是がために掛け置く人夫ありて、器械にて掃除してふさがることなからしむ」(『航西日記』一部意訳)

江戸の場合、徳川4代将軍家綱の時代に上水道として玉川上水が開削され、府内に引きこまれた水は木管や土管を通して各屋敷や長屋の井戸へ供給された。しかし、下水は道の両脇通した溝(どぶ)に落とすだけ。屎尿(しにょう)処理は葛西(かさい)からやってくる汚穢舟(おわいぶね)に任されており、燃料どころか灯火としてもガスは用いられていなかった。だからこそ、これらパリ市街の地下の構造を知ることは、レンガ造り、あるいは大理石造りのビル建築とともに新都東京のグランドデザインの作成に寄与するのである。

皇帝たちの「ノブレス・オブリージュ」

6月2日、渋沢栄一はロシア皇帝アレクサンドル2世、ナポレオン3世、プロシャの皇太子らと競馬を観る機会があった。アレクサンドル2世とナポレオン3世とはあるレースに10万フランずつを賭け、勝負することにした。結果はアレクサンドル2世の勝ちとなったが、栄一が感心したのはそのあとのこと。アレクサンドル2世は、これによって得た10万フランをただちにパリの貧民院に寄付したのである。

「ノブレス・オブリージュ」というフランス語は、高貴な身分の者には徳義的な義務が伴う、という意味だ。一般庶民が思いがけず10万フランを得たら、飲み食いに使ってもかまわない。しかし、アレクサンドル2世は訪問地パリの福祉に役立てようと即座に考え、実行した。

栄一がこのことを記録しているのは、これまでフランス語を学びつづけていた身として、ノブレス・オブリージュという表現の具体例を初めて実見し、深く記憶に留めたためであろう。栄一はスエズ運河が私利私欲ではなく公益のために開削されつつあると知って感服した、と前述した。その栄一は、この日アレクサンドル2世が掛金の収得よりも貧民救済を優先する意志を示した点にさらに学ぶところがあった、と見たい。

このアレクサンドル2世に関して栄一は、5月4日に暗殺未遂事件が起こったことを新聞報道によって詳述している。同日、パリ郊外で大観兵式がおこなわれ、ナポレオン3世はいうまでもなく、アレクサンドル2世、その王子(のちのアレクサンドル3世)、プロシャ国王その他の貴族が大集合。向山駐仏公使も招かれたので栄一も陪席し、歩・騎・砲3兵およそ6万人がみごとに進退している姿を眺めた。そしてナポレオン3世とアレクサンドル2世が、帰途おなじ馬車に乗って松林を抜けようとしたときのこと、轟音が2発、初弾はその馬車を曳く馬の1頭の鼻孔を撃ち、第2弾は暴発して暗殺者の指1本を吹き飛ばした。

日本でも安政7年(1860)3月3日に桜田門外の変が発生して大老・井伊直弼が水戸と薩摩の尊王激派に首を奪われ、文久2年(1862)1月15日には老中・安藤信正が水戸の激派6人に襲われるという事件が起こった(坂下門外の変)。しかし、大国ロシアの工程がパリで狙撃されたとは、露仏戦争が勃発するかもしれない大事件である。栄一は「ラシヱクル新聞」の記事がもっとも詳しいことに気づいて同紙の記事を『航西日記』中に訳出し、犯人はポーランド人の職人ベリゾウスキ20歳であること、犯行はアレクサンドル2世の虐政を批判してのことであること、などを詳述。さらに、「フランス新聞」により、側近たちから急ぎ帰国すべしといわれたアレクサンドル2世が、これくらいのことで予定は変更しない、と答えたことも記録した。

栄一がこの日の日記の最後にフランスの新聞報道の速くて詳しいことを高く評価し、政府が新聞記者たちに何も隠すことなく「寛優」な態度で対応する点をよき「国風」としている点も注目に値しよう。栄一はいずれこれらの新聞が日本の開港地へ運ばれることも承知していたが、その速報性のありがたさを実感したことから新聞の正しいあり方を悟ったようだ。さらに6月4日、市内の病院を視察したときのことも書いておこう。

「入口、番卒を置き、各房病者の部類を分ちて上等化等の差別あり。一房毎に病者数十人床をつらね臥す。臥床、皆番号あり、臥具(ベッド)すべて白布を用ひ専(もっぱ)ら清潔を旨とす。看護は尼女(にじょ/尼僧)の務(つとめ)とす。皆配剤所(薬局)、食料所(売店)の結構(規模)なり。瀧泉を掛(かけ)て灌頂(かんじょう)せしむる所(シャワー室)あり。床下蒸気管を通じて冬月(冬期)各房を温むる用とし、又、一の幽室(霊安室)あり。六、七箇の臥床に死者を載せ、木蓋して面部の所は布もて掩ひ、側に標札あり。【略】院の後ろに洗濯場あり、数人其事に従事す。院内遊歩の花園あり、病者の運動に宜(よろ)しきもの、園内を逍遥せしむ。此の病院はパリの市中に或る富家の寡婦・・・・・・・・・・・・・・・・・・功徳・・・(くどく)のため若干の金を出して創築せし由にて・・・・・・・・・・・・・・・・・・、其写真の大図、入口に掲げてあり」(同、同)

霊安室まで覗いてみる知的好奇心はなかなかのものだが、傍点部分でも富裕層の未亡人のノブレス・オブリージュの精神に言及されていることに注意したい。栄一は、医師の治療よ看護・保養の両方に感服したようだが、同行の幕府奥詰医師・高松凌雲はアメリカ人宣教師ヘボンの弟子で、帰国後、榎本武揚ら蝦夷地脱走軍に参加。箱館病院をひらき、箱館戊辰戦争に加わった兵たちを敵味方わけへだてなく手当てして世に知られることになる。

赤十字の提唱者アンリ・デュナン(スイス人)は「人の命を尊重し、苦しみの中にいる者は、敵味方の区別なく救う」ことを目的とした。日本赤十字社の初めての活動は明治10年(1877)の西南戦争における負傷者救護だといわれているが、1864年(元治元年)すでに国際赤十字組織が誕生していたことに注目すれば、定説は下のように修正すべき余地がある。

高松凌雲は徳川昭武の侍医としてフランスに渡ったときに栄一らとパリの病院を見学し、赤十字の精神を知って箱館戊辰戦争中、箱館で敵味方の差別なく治療をほどこすという教えを実践した。ならば、日本で初めて赤十字の精神を発揮したのは凌雲である、と。

フランスは渋沢栄一だけでなく、高松凌雲にとっても「大学」のような場所だったのである。

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プロフィール

作家 中村 彰彦

作家 中村 彰彦

1949年栃木県生まれ。作家。東北大学文学部卒。在学中に「風船ガムの海」で第34回文學界新人賞佳作入選。卒業後1973~91年文藝春秋に編集者として勤務。1987年『明治新選組』で第10回エンタテインメント小説大賞を受賞。1991年より執筆活動に専念し、93年、『五左衛門坂の敵討』で第1回中山義秀文学賞を、94年、『二つの山河』で第111回(同年上半期)直木賞を、2005年に『落花は枝に還らずとも』で第24回新田次郎文学賞を、また2015年には第4回歴史時代作家クラブ賞実績功労賞を受賞する。近著に『幕末維新改メ』(晶文社)など。史実第一主義を貫く歴史作家。

ホームページ:中村彰彦公式サイト

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