
一橋慶喜が将軍に就任し、その弟・昭武がフランスで開催される「パリ万博」に貴賓として招かれた。慶喜の判断で、渋沢栄一は洋行の御供として選ばれた。船上生活で異文化に溶けこむ柔軟さや好奇心の強さを発揮した渋沢栄一は、フランスに到着してすぐに、最新式の軍港を訪れ、さまざまな最新技術を目の当たりにする。
日本の資本主義の礎を築いた渋沢栄一。2022年に日本最高額紙幣の“顔”となる「日本資本主義の父」がどのように生まれたかを、史実第一主義の直木賞作家・中村彰彦氏が紹介する(編集部)。
日本の資本主義の礎を築いた渋沢栄一。2022年に日本最高額紙幣の“顔”となる「日本資本主義の父」がどのように生まれたかを、史実第一主義の直木賞作家・中村彰彦氏が紹介する(編集部)。
ナポレオン3世からの歓待に、先進の西洋文明を肌で感じる
渋沢栄一のフランス体験を詳しく紹介していくとくだくだしくなるので、4月25日に前外務大臣の夜の茶会に招待されてから、29日にナポレオン3世主催の観劇会に出席するまでの動きは、幸田露伴『渋沢栄一伝』の要約によって示そう。なお、『渋沢栄一伝』は日付を和暦によって表記しているので、( )内に西暦の日付その他を補っておく。
「(4月25日)前外務大臣の茶の会に招かれては、我が交際の作法の開朗ならざるを反省した。24日(4月28日)公子(徳川昭武)其他(そのた)仏帝(ナポレオン3世)に謁見したが、我は皆衣冠狩衣(いかんかりぎぬ)、或(あるい)は布衣(ほい)・素袷(すおう)であつた。
28日(5月2日)風船(軽気球)を観、29日(同3日)仏帝の催(もよおし)にて看劇し、其の所謂(いわゆる)劇なる者、当時の我国の芝居とは雲泥の差あり。【略】宏麗の館、優美の曲、音楽舞踏、幻化百出、絢爛(けんらん)雅麗(がれい)、花の如く錦の如くにして万人を悦ばしむるに足り、且(かつ)重礼大典等ありて其事終れば、帝主の招待ありて各国帝王、使臣等を餐遇(きょうぐう)慰労する常例となり居(おり)、国家交際の一具となり居れると看た。(栄一が)後年同志を紹合して帝国劇場を設けたのも、蓋(けだ)し此時(このとき)劇場なるものが社会に何様(どう)いふ作用をするものであるかといふことを識得したのが胞子となつたに疑(うたがい)無い」
社交の重要性に気づいたというのも栄一ならではの発見であり、かれは5月4日に出席した舞踏会については次のような感想を書き留めている。
「賓客男女ともにみな礼服を盛んに飾り、相集り、互(たがい)に歓語(かんご)し、音楽を奏し、其曲に応じて男女年頃の者偶(ぐう/相手)を選び【略】手を携へ肩を比して舞踏す。【略】是則(これすなわち)好(こう)を結び歓(かん)を尽し、人間交際の誼(よしみ)を厚ふするのみならず、男女年頃の者、互に容貌を認め、言語を通じ、賢愚を察し、自ら配偶を選求せしむる端(はな)にて【略】礼儀正しく彼の楽(たのし)んで淫せざるの風を自然に存せるならん」(『航西日記』)
かつて尊攘激派だった渋沢栄一は、今や温顔の観察者となって西洋文明と習俗の理解と吸収に努めたのである。
「(4月25日)前外務大臣の茶の会に招かれては、我が交際の作法の開朗ならざるを反省した。24日(4月28日)公子(徳川昭武)其他(そのた)仏帝(ナポレオン3世)に謁見したが、我は皆衣冠狩衣(いかんかりぎぬ)、或(あるい)は布衣(ほい)・素袷(すおう)であつた。
28日(5月2日)風船(軽気球)を観、29日(同3日)仏帝の催(もよおし)にて看劇し、其の所謂(いわゆる)劇なる者、当時の我国の芝居とは雲泥の差あり。【略】宏麗の館、優美の曲、音楽舞踏、幻化百出、絢爛(けんらん)雅麗(がれい)、花の如く錦の如くにして万人を悦ばしむるに足り、且(かつ)重礼大典等ありて其事終れば、帝主の招待ありて各国帝王、使臣等を餐遇(きょうぐう)慰労する常例となり居(おり)、国家交際の一具となり居れると看た。(栄一が)後年同志を紹合して帝国劇場を設けたのも、蓋(けだ)し此時(このとき)劇場なるものが社会に何様(どう)いふ作用をするものであるかといふことを識得したのが胞子となつたに疑(うたがい)無い」
社交の重要性に気づいたというのも栄一ならではの発見であり、かれは5月4日に出席した舞踏会については次のような感想を書き留めている。
「賓客男女ともにみな礼服を盛んに飾り、相集り、互(たがい)に歓語(かんご)し、音楽を奏し、其曲に応じて男女年頃の者偶(ぐう/相手)を選び【略】手を携へ肩を比して舞踏す。【略】是則(これすなわち)好(こう)を結び歓(かん)を尽し、人間交際の誼(よしみ)を厚ふするのみならず、男女年頃の者、互に容貌を認め、言語を通じ、賢愚を察し、自ら配偶を選求せしむる端(はな)にて【略】礼儀正しく彼の楽(たのし)んで淫せざるの風を自然に存せるならん」(『航西日記』)
かつて尊攘激派だった渋沢栄一は、今や温顔の観察者となって西洋文明と習俗の理解と吸収に努めたのである。
「上野恩賜動物園」の基となったフランスの施設見学
ほかに渋沢栄一たちは、凱旋門、チュイルリー宮殿、シャンゼリゼ博物館などを見学したほか、前述したのとは異なる動植物園を訪ね、ベトナムで乗ってみたことのあった象のほか、ライオン、虎、豹、山犬、狼、熊、羆(ひぐま)、カバ、カンゲロウ(カンガルー)、胴回りが1尺(0.303メートル)もある大蛇などを見た、と記録している。
日本に「上野恩賜動物公園」が開園されるのは明治15年(1882)のことだが、その開設に努力したひとりが、渋沢栄一だと指摘する人がいるのもうなずける。
日本に「上野恩賜動物公園」が開園されるのは明治15年(1882)のことだが、その開設に努力したひとりが、渋沢栄一だと指摘する人がいるのもうなずける。
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