第14話:ヨーロッパ体験によって「未来を見つめる日本人」としての自覚に目覚める

一橋慶喜が将軍に就任し、その弟・昭武がフランスで開催される「パリ万博」に貴賓として招かれた。慶喜の判断で、渋沢栄一は洋行の御供として選ばれる。船上生活で発揮された、異文化に溶けこむ柔軟さや好奇心を見てゆこう。
日本の資本主義の礎を築いた渋沢栄一。2022年に日本最高額紙幣の“顔”となる「日本資本主義の父」がどのように生まれたかを、史実第一主義の直木賞作家・中村彰彦氏が紹介する(編集部)。

上海で目撃したアジアの大国・清の斜陽

フランスへの旅は、西洋文明発見の旅にほかならなかった。それを一目でわかる記述を『航西日記』から拾ってみよう。

なお、「アルヘー号」が横浜を出港した慶応3年1月11日は西暦1867年2月15日であり、航海4日目の19日、船は清国の揚子江をさかのぼって上海に着いた。上海港に上陸した一行がイギリス人経営のホテルに入ると、この開港地に駐在するイギリス、フランスの役人たちがやってきて無事到着を喜んでから、海辺の道を散歩する案内をしてくれた。栄一たちは、初めて友好通商条約で結ばれた国家同士の外交儀礼を知ったのである。

岸辺には外国人の官舎がつらなり、一等地に建つ公使館にはその国の国旗がひるがえっていて、日本では「運上所」と呼ばれている税関もあった。税関の門は海に面した浮き波止場に通じており、そこには「鉄軌(てっき/レール)」が敷かれて荷物の陸揚げに使われていた。その税関の役人として近年西洋人を採用するようになってから「旧来の弊」が改まり、歳入も倍増して年に500万ドル(わが国の500万両余)に至った、とは従来の清国人の役人は袖の下を受け取ったり税額をごまかしたりしていた、ということであろう。

岸辺につらなるガス灯と電柱、電線は特に栄一の知的好奇心を刺激したらしく、ガス灯には「地中に石炭を焚(た)き樋(とい)を掛(かけ)、其(その)火光を所々へ取るもの」、電線には「鉄線を張り施し越列機篤児(エレキテル)の気力を以て遠方に音信を伝ふるものをいふなり」との割注がある。

美しい街路樹が植えられていて、道路が平坦である点も、馬車を発明できなかった日本人には印象的だったようだ。

ところが、1里ほど行って城門の内にひろがる清国人街に入ると、2階建てではあるが間口が狭く軒(のき)も低い店が並んでいて、その店先で牛、豚、鶏、鵞鳥などの煮られる臭いがものすごく混じり合い、道の両側のドブの汚水は乾く間もない。行商人や駕籠かき、物乞いなどが何か叫びながら群衆の中を行き通うさまには、嫌悪感をもよおした。

ヨーロッパ人は「土人(清国人)」を使役すること牛馬を追うごとくであり、のろのろしていると棍棒で殴りつける。われわれも市中を遊歩するうち清国人が集ってきて道をふさがれ、わあわあいわれてやかましくて仕方なかった。そこへ英仏の兵が来て追い払うと潮が引くように去り、しばらくするとまた集まってくる。

清国は東洋に名高い古い国で、人民の多さ、土地の豊かさ、産物に富む点などはヨーロッパやアジアの諸国の及ぶところではない。しかるに「喬木(きょうぼく/丈の高い木)風に折らる」の成句を地で行って世界の開化の時期に遅れ、なおも自分たちの国を一番とみなす尊大の風に染まったままでいるから、開国してより国家の体裁を保つことができず、ヨーロッパ諸国の兵力に対抗できないことを恐れてばかりいる。これでは旧政にこだわって日に日に貧弱に陥るばかりであろうと思うと、惜しい気もしないではない。

日本を清国の二の前にしないために、ヨーロッパ文明と同等に渡り合う必要性を悟る

高校の日本史で教えられるように、清国が衰亡におもむいた最大の原因は、1840(天保11)年6月から42(同13)年にわたる「アヘン戦争」でイギリスに大敗を喫し、香港を割譲したほかに上海などをあらたに開港せざるを得なくなったことにある。ここから清国はヨーロッパ列強に良港を蚕食される姿となってゆき、渋沢栄一が見た上海の租界(外国の租借地域)の繁栄と清国人街の貧困も、清国がイギリスと結んだ不平等条約に由来していた。

このときの栄一が、清国の悲劇をどこまで理解していたかははっきりしない。だが、清国人街の不潔さに辟易としながらも清という国家に同情を寄せている点に注目すると、このとき初めて栄一は、日本人を清国人のようにしないためにも自分たちがもっとヨーロッパ人の文明に学ばねば、と考えたのではあるまいか。

そう思うことが許されるならば、このときようやく栄一は、農民、一橋家家臣、幕臣といった殻を破り、「未来を見つめる日本人」として現代史の激流に対峙しはじめた、といってよい。

前回(12話)に見たように、渋沢栄一が徳川昭武に同行することになった理由のひとつは、昭武に仕える水戸藩士7人が頑固すぎるので、何かあった場合はこの7人をチェックすることにあった。

船中でこの攘夷派7人がどうしていたのかが『航西日記』にはまったく書かれていないのは、栄一が寄港地ごとの<ヨーロッパ体験>を記述するのに忙しく、7人の存在などいつか眼中から消えてしまったためであろう。

「アルヘー号」は上海に2泊し、西暦2月21日に出港。24日の午前10時に香港に着いた。
前回(12話)に見たように、渋沢栄一が徳川昭武に同行することになった理由のひとつは、昭武に仕える水戸藩士7人が頑固すぎるので、何かあった場合はこの7人をチェックすることにあった。

船中でこの攘夷派7人がどうしていたのかが『航西日記』にはまったく書かれていないのは、栄一が寄港地ごとの<ヨーロッパ体験>を記述するのに忙しく、7人の存在などいつか眼中から消えてしまったためであろう。

「アルヘー号」は上海に2泊し、西暦2月21日に出港。24日の午前10時に香港に着いた。