渋沢栄一が仕える一橋慶喜が徳川15代将軍に
家茂とその正室・和宮の間に子供はなく、御三家にも次の将軍たり得る男子は存在しなかったので、御三卿から一橋慶喜が指名されて15代将軍と決定。新将軍は家茂の死が秘匿されていたためその名代として追討戦に出陣し、幕軍の士気を振起することになった(7月29日、勅許)。
8月8日、天皇から節刀(せっとう/主将の印である太刀)を受けて本陣(大本営)の大坂城に移った徳川慶喜は、旗本一同を召して一席ぶった。「毛利大膳(だいぜん/敬親)父子は君父の讐(かたき)なり、此度(このたび)己(おのれ)出馬するからは、仮令(たとい)千騎が一騎になるとも、山口城まで進入して戦(いくさ)を決する覚悟なり。その方どもゝ余と同じ決心なら随従すべし。其(その)覚悟なきに於(おい)ては随従に及ばず」(渋沢栄一『徳川慶喜公伝』3)
当時の渋沢栄一の立場の変化については、栄一自身の回想を引こう。「この時に自分も長州征伐の御供(おとも)を命ぜられて、勘定組頭から御使番格(おつかいばんかく)に栄転した。【略】自分は勘定組頭の職を命ぜられてからは一図(途)に一橋家の会計整理に力を尽くして種々勘定所の改良を勉めて居たが、右の如く君公御出馬という場合になっては、腰抜け武士となって人後に落ちることは好まぬ気質だから、強いて従軍を願って御馬前で一命を棄てる覚悟でありました」(『雨夜譚』)
もちろん栄一は、従軍することを郷里の実家にいる妻・千代にも書面で伝えた。その書面の内容については、のちに娘の歌子が『はゝその落葉』の中であきらかにしている。
「其(その)時の御手紙に、郷里に居た頃から、尊王攘夷の志が同じなのを聞いて、はるかに敬慕して居た長州人を敵として向ふのは、誠に本意にもとる事であるが、公(一橋慶喜)の命令故(ゆえ)どうも反(そむ)くわけに行かぬ。武士として戦場に向ふからには生還は期し難い。私の身の上が今少し落附(おちつ)いたなら、御前(千代)と歌(歌子)は私の手許へ迎へとらうと予期して居た甲斐もなくなつたのが残念だ。もし討死(うちじに)でもする様な事になつたならば、御両親への孝養は勿論(もちろん)、歌のこともくれぐれ頼みますと云ふ事を、細々(こまごま)と云つてよこされ、一振(ひとふり)の懐剣を添へて送られて、御手紙の返す書(添え書き)に、此れは武士の妻になつた御前の守刀(まもりがたな)にと買つて置いたから、今度の序(ついで)に送るのであるが、かならず私が死んだなら御前もと云ふ謎と思ひ違へてはならぬと書かれている」
懐剣はあきらかに形見の品だから、栄一は戦死する覚悟であったことは確かである。
慶喜の出陣予定日は、8月12日とされていた。ところがその12日、小倉落城とこの方面の幕軍指揮官・小笠原長行(ながみち/老中・唐津藩世子)の逃亡が伝えられるや、慶喜は前言をひるがえして出陣を中止。今後は諸藩の会議で長州処分を決める、と言い出した。その後の慶応2年の主な出来事は次の通り。
8月16日:徳川慶喜参内し、征長軍の解兵を請い勅許を得る。
同20日:慶喜の徳川家家督相続が布告される。
同21日:将軍・家茂死去のため、征長中止の沙汰書が出される。
9月2日:幕長休戦の協定なる。
12月5日:慶喜、参内して征夷大将軍、正2位、氏長者(うじのちょうじゃ)の宣下(せんげ)を受け、正式に徳川15代将軍となる。
8月8日、天皇から節刀(せっとう/主将の印である太刀)を受けて本陣(大本営)の大坂城に移った徳川慶喜は、旗本一同を召して一席ぶった。「毛利大膳(だいぜん/敬親)父子は君父の讐(かたき)なり、此度(このたび)己(おのれ)出馬するからは、仮令(たとい)千騎が一騎になるとも、山口城まで進入して戦(いくさ)を決する覚悟なり。その方どもゝ余と同じ決心なら随従すべし。其(その)覚悟なきに於(おい)ては随従に及ばず」(渋沢栄一『徳川慶喜公伝』3)
当時の渋沢栄一の立場の変化については、栄一自身の回想を引こう。「この時に自分も長州征伐の御供(おとも)を命ぜられて、勘定組頭から御使番格(おつかいばんかく)に栄転した。【略】自分は勘定組頭の職を命ぜられてからは一図(途)に一橋家の会計整理に力を尽くして種々勘定所の改良を勉めて居たが、右の如く君公御出馬という場合になっては、腰抜け武士となって人後に落ちることは好まぬ気質だから、強いて従軍を願って御馬前で一命を棄てる覚悟でありました」(『雨夜譚』)
もちろん栄一は、従軍することを郷里の実家にいる妻・千代にも書面で伝えた。その書面の内容については、のちに娘の歌子が『はゝその落葉』の中であきらかにしている。
「其(その)時の御手紙に、郷里に居た頃から、尊王攘夷の志が同じなのを聞いて、はるかに敬慕して居た長州人を敵として向ふのは、誠に本意にもとる事であるが、公(一橋慶喜)の命令故(ゆえ)どうも反(そむ)くわけに行かぬ。武士として戦場に向ふからには生還は期し難い。私の身の上が今少し落附(おちつ)いたなら、御前(千代)と歌(歌子)は私の手許へ迎へとらうと予期して居た甲斐もなくなつたのが残念だ。もし討死(うちじに)でもする様な事になつたならば、御両親への孝養は勿論(もちろん)、歌のこともくれぐれ頼みますと云ふ事を、細々(こまごま)と云つてよこされ、一振(ひとふり)の懐剣を添へて送られて、御手紙の返す書(添え書き)に、此れは武士の妻になつた御前の守刀(まもりがたな)にと買つて置いたから、今度の序(ついで)に送るのであるが、かならず私が死んだなら御前もと云ふ謎と思ひ違へてはならぬと書かれている」
懐剣はあきらかに形見の品だから、栄一は戦死する覚悟であったことは確かである。
慶喜の出陣予定日は、8月12日とされていた。ところがその12日、小倉落城とこの方面の幕軍指揮官・小笠原長行(ながみち/老中・唐津藩世子)の逃亡が伝えられるや、慶喜は前言をひるがえして出陣を中止。今後は諸藩の会議で長州処分を決める、と言い出した。その後の慶応2年の主な出来事は次の通り。
8月16日:徳川慶喜参内し、征長軍の解兵を請い勅許を得る。
同20日:慶喜の徳川家家督相続が布告される。
同21日:将軍・家茂死去のため、征長中止の沙汰書が出される。
9月2日:幕長休戦の協定なる。
12月5日:慶喜、参内して征夷大将軍、正2位、氏長者(うじのちょうじゃ)の宣下(せんげ)を受け、正式に徳川15代将軍となる。
慶喜の将軍就任に反対だった渋沢栄一
一橋慶喜を次の将軍に、という説がおこなわれはじめた当初、栄一はこれを不可として新たに筆頭用人となった原市之進(水戸藩出身、藩校・弘道館訓導などを歴任)に談じこんだこともあった。今の徳川家は土台も柱も腐って屋根も2階も朽ちた大きな屋敷のようなものだから、大黒柱1本を取り換えればもつというものではない、と。
そして、栄一は、新将軍には別人を選んで慶喜は今後も「禁裡御守衛総督」の職務をつづけ、より充分に職責を果たすために幕府から50万石か100万石を一橋家に加増してもらうのがよいと、原市之進に献策。原もその気になってその旨を言上せよ、というところまでいった。ところがその翌日、慶喜が京から大坂へ下ってしまったため栄一のプランは空振りにおわったのであった。
こうして栄一は一種なしくずしに「一橋家の家臣」という身分から「幕臣」になってのであり、「陸軍奉行支配調役(しらべやく)」という御目見(おめみえ)以下の者の命じられる役向きとなった。これは栄一としては面白くも何ともない役職でしかない。
「回想すれば一橋家へ仕官してより既に二カ年半の歳月を経、言も行われ説も用いられ、辛苦計営(経営)していささか整理に立至った兵制、会計等の事も、皆水泡に帰したのは実に遺憾の事であった」(『雨夜譚』)
栄一は思った。あと1、2年の間に幕府は倒れるに違いないから、このまま幕臣でいるとついには亡国の臣になってしまう。ならば今の役向きから去るしかないが、この後の身の振り方をどうするべきか。これまで用人筆頭だった黒川嘉兵衛はよく自分の意見を採用してくれたし、慶喜にじかに拝謁して物申すこともできた。しかし、慶喜は将軍になると御目見以下とされた身では拝謁を許されないし、新たに用人筆頭となった原市之進にも垣根越しに物をいうようなよそよそしさがある。
そんなことから栄一は、以前のように浪人しよう、と覚悟を決めた。それが慶応2年11月ごろのことであったが、天は栄一が浪人暮らしにもどることを許さなかった。栄一がそうと気づいたきっかけは、11月29日、原市之進が急に相談したいことができたから来てくれ、との要件で使いをよこしたことにあった。
【つづく】
そして、栄一は、新将軍には別人を選んで慶喜は今後も「禁裡御守衛総督」の職務をつづけ、より充分に職責を果たすために幕府から50万石か100万石を一橋家に加増してもらうのがよいと、原市之進に献策。原もその気になってその旨を言上せよ、というところまでいった。ところがその翌日、慶喜が京から大坂へ下ってしまったため栄一のプランは空振りにおわったのであった。
こうして栄一は一種なしくずしに「一橋家の家臣」という身分から「幕臣」になってのであり、「陸軍奉行支配調役(しらべやく)」という御目見(おめみえ)以下の者の命じられる役向きとなった。これは栄一としては面白くも何ともない役職でしかない。
「回想すれば一橋家へ仕官してより既に二カ年半の歳月を経、言も行われ説も用いられ、辛苦計営(経営)していささか整理に立至った兵制、会計等の事も、皆水泡に帰したのは実に遺憾の事であった」(『雨夜譚』)
栄一は思った。あと1、2年の間に幕府は倒れるに違いないから、このまま幕臣でいるとついには亡国の臣になってしまう。ならば今の役向きから去るしかないが、この後の身の振り方をどうするべきか。これまで用人筆頭だった黒川嘉兵衛はよく自分の意見を採用してくれたし、慶喜にじかに拝謁して物申すこともできた。しかし、慶喜は将軍になると御目見以下とされた身では拝謁を許されないし、新たに用人筆頭となった原市之進にも垣根越しに物をいうようなよそよそしさがある。
そんなことから栄一は、以前のように浪人しよう、と覚悟を決めた。それが慶応2年11月ごろのことであったが、天は栄一が浪人暮らしにもどることを許さなかった。栄一がそうと気づいたきっかけは、11月29日、原市之進が急に相談したいことができたから来てくれ、との要件で使いをよこしたことにあった。
【つづく】
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