第10話:渋沢栄一が開設した幕末のニュー・ビジネス

日本の資本主義の礎を築いた渋沢栄一。2022年に日本最高額紙幣の“顔”となる「日本資本主義の父」がどのように生まれたかを、史実第一主義の直木賞作家・中村彰彦氏が紹介する。(編集部)

米・反物・火薬の新事業を開発してさらに出世する

こうして備中、播州、摂州、泉州を巡るうちに、栄一は一橋家と同家の領民たちをより富ませる工夫ができるのではないか、それが自分の本領を発揮できる行動だ、と考えはじめた。たとえば、播州は上米(じょうまい/質の良い米)がたくさん収穫できる土地だが、ここの領地から上納される年貢米は兵庫の「蔵元(くらもと)」という名の商人たちに売却がゆだねられていた。しかし、代官の目は米価にまでは届かないので、米の売り値ははなはだ安かった。もしこれを灘(なだ)や西宮の酒造家に売れば、より高値がつくというのに。

また播州は白木綿の産出量の多いところだというのに、かつて大坂でその白木綿が売り出されたことはなかった。さらに備中は古い家の縁の下から硝石が多く採れるところで、これは火薬の原料になるから軍制の洋式化を急ぎつつある一橋家にとっては必需品であり、商品価値も高い。これらのことを念頭において、栄一は黒川嘉兵衛をトップとする用人たちに3ヵ条の建言をこころみた。

1に廻米の方法を改めること。
2に播州の白木綿を「物産」として大坂で売り出し、運上(うんじょう/税)を取ることにしたいこと。
3に備中に硝石の製造場をひらくこと。


黒川たちはこの献策を喜び、栄一を「勘定組頭並(かんじょうくみがしらなみ)」に抜擢してくれた。時に慶応元年(1865)8月19日のこと。禄高25石7人扶持(ぶち)、滞京中の月々の手当は21両と、「小十人」の身分より禄高は8石2人扶持、月俸は7両2分も上がった。

新たな流通ルートを開拓して、産業価値を高める

江戸幕府は「寺社奉行」、「町奉行」、「勘定奉行」の3奉行を置く制度を採用しており、勘定奉行は天領(幕府直轄地)の代官・郡代を監督しつつ収税、金銭出納など幕府の財政と領内農民の行政、訴訟を受け持った。諸藩や御三卿にも勘定奉行は置かれていたが、勘定所全体の要務はその配下の「勘定組頭」に任されることが多い。特に栄一は用人たちに指名されて勘定組頭並に昇ったため、勘定所の役人たちの間でも重要人物として扱われ、一橋家の財政を好転させることが期待された。

結論からいうと、栄一は総じてこの期待に沿うことができた。まず、年貢米の売りさばきについていうと、これを灘や西宮の酒造業者に酒米として売る手法に切り換えたところ、相場よりも1石につき50銭も高く売れた。栄一は旧来よりも良い流通ルートを開発することに成功したのである。

つづいて備中の硝石については、歩兵募集の際に知り合った撃剣家の関根某(なにがし)が硝石製造を心得ていたのでこれを使うことにし、土地の庄屋たちにも協力を求めて資金を用意してやった。完全な硝薬ができたらある定価で買い上げる、という約束で4ヵ所に製造所を開設させてみたのである。

「然(しか)し此(これ)は当時猶(なお)是(かく)の如き新事業に就(つ)きての知識経験が乏しく、硝石需要も未だ能(よ)く開けてゐなかつたので、苦心は十分に酬いらるゝに及ばすして止んだ」(幸田露伴『渋沢栄一伝』)

対して播州の白木綿の販売ルートと取り引きの手法の確定は栄一の商才をよく示すに足る成果を挙げた事業なので、これをやや詳しく見ておこう。

渋沢家の家業経験を活かし木綿の販路拡大策を実施する

これまで一橋家の播州における2万石の領地で生産される木綿は、村民たちが思い思いに大坂へ持っていって売ってくる、というだけのしろものであった。ところが姫路藩領で生産される「白木綿」は「藩法」によって姫路に集められ、晒(さらし)にして大坂と江戸で売り出される仕組になっていて、1反あたりの値段も非常に高い。その隣村であっても一橋家の領地で生産されるそれは値段も安く、姫路産に比して量も少ない。要するに姫路藩領の木綿は「物産」だが、播州の一橋家の領民たちの作るそれはまだ物産とはいえなかった。

ただし、木綿は増産しようと思えば増産できる余地がある。そこで栄一は領内の今市村に「物産会所」を開設して領内に産した木綿をここへ集め、大坂にひらいた問屋へ送って売りさばかせる、その売り上げ代金はやはり大坂に開設した会所へ納めさせる、という流通ルートを構築した上で、決算は一橋家の発行する「藩札(はんさつ)」でおこなうことにした。

このシステムについては、栄一自身の解説がある。「播州の木綿反物については藩札を発行して、それで木綿を買上げ、大阪(ママ)に立てた問屋へ向けて送る、問屋はこれを売捌(うりさば)き、その売上代金は大阪(ママ)の会所へ納めるという仕法であった。而してその会所の元方(もとかた)は播州の今市という処に立て、そこで印南郡(いんなみごおり)を始めとして多可(たか)、加東(かとう)、加西(かさい)などいう郡中から出る沢山な木綿をば、今市から四里ほど隔たった所に設けた物産会所に収集して、そこから大阪へ送って金にする。またその買入元金(かいいれがんきん)は、今市の会所において人々の望(のぞみ)に応じて藩札を渡し、その藩札は村民の申出(もうしで)に任せて正金(しょうきん/現金)に引換(ひきかえ)る仕組(しくみ)であるから、大阪(ママ)の出張所には常に相当の正金が残る。それを確実なる所へ預けて置けば、一方には金も殖え、一方には品が運転(回転)して、したがって余計に出来るようになる、という趣向でありました」(『雨夜譚』)

この1文中の「会所の元方」は会社の本社、「物産会所」は流通倉庫、「大坂の問屋」は販売所、「大阪の出張所」は経理部門を指している。10代にして藍の買いつけと藍玉の販売に通じた栄一は、物資を移動させることによって利益を得るという<資本主義の原則>をいつしか身につけていたのである。

「藩札」の信用暴落に見る幕末の貨幣経済事情

なお、この木綿の物産化に関する栄一の手法のうちもっとも注目すべきは、「藩札を発行・使用した」ことであろう。長州藩・熊本藩・佐賀藩などはすでに藩札を発行し、よく通用させていたが、たとえば姫路藩の藩札は他領では通用しなかった。いや、通用するにしても1束の藩札で豆腐1丁しか買えない、というほど信用がなく、たとえば100匁(もんめ)の額面のものは正金30匁にしか相当しないとされていた。

栄一は備中へ往復する際に、岡山藩の領内で正金の代わりに藩札を受け取ったことがあった。ただしその藩札は国境(くにざかい)を越えると通用しなかったので領内で使ってしまわざるを得ず、余計な買物をする羽目になった。

近現代にあっては常識だが、ある国の紙幣がその額面通りに通用するのは、「兌換紙幣(だかんしへい)」といって、いつでも金か銀の本位貨幣に引き換えられるからである。ところが幕末に諸藩が発行した藩札には、兌換紙幣の性格の確立されていないケースが珍しくなかった。

この時代に「正金」といわれていた本位貨幣は京・大坂が「銀」、江戸が「金」。しかし諸藩の藩札と正金の引換所は時々勝手に店を閉める、引き換えを中止する、といった行為に及び、会計役人にも藩札は他領で使ってもらった方が自藩の得になる、などと思っている輩(やから)が多かった。そんなことだから藩札の信用が地に落ち、額面の3割程度の通貨としてしか通用しなくなるのである。

これらの状況をつらつら眺めた栄一は、使用するには金銀よりも紙幣の方が便利だから、引き換え準備金として正金を充分に用意し、実直に流通させれば一橋家でも藩札を発行できる、と判断。諸外国の紙幣取り扱い法を知らないというのに、木綿販売に藩札を使用してみごとに成功をおさめたのであった。

渋沢栄一が創造した新たな貨幣経済の仕組み

まず栄一は播州印南郡の今市村の財産家から土蔵を借りて、「藩札引き換えの会所(会所の元方)」を設立し、藩札は次のように使用した。

「木綿買入(かいいれ)について資本を望む商人へはその木綿荷物と引換に適宜に札(藩札)を渡し、取(とり)も直さず荷為替貸金(にかわせかしきん)の手続をする。もしこの木綿を本人の手で大阪(ママ)へ売却しようとする時には、初め資本に借受けた藩札の金高を正金にして大阪(ママ)において払い込めば、それを引換に木綿を請取ることが出来る、また会所の手で売却を望むものがある時には、会所において売捌手続を立ててこれを取扱い、その売上代金の内から貸付けである所の藩札代を受取り、差引決算を立てる、その間に些少の手数料を取る都合であった。

また藩札の引換は今市村の会所と定めて、その準備金は今市と大阪とに置くものとし、大坂の豪家に預けて利息を取るという仕組で【略】、その金主(出資者)というのは今掘、外村、津田その他二軒ばかりであったが、二十二軒の御為替組(おかわせぐみ)の中でも重立った金持五軒の用達(ようたし/一橋家出入りの者)であった」(『雨夜譚』)

栄一は藩札作製資金ほか一切の費用をこれら5軒に調達させ、一橋家勘定所からは1文(もん)も出金しなかったというから大変な交渉能力である。

藩札の発行高は、最初まず3万両、事情によっては2、30万両発行してもよいとの見込みを立てて慶応元年(1865)12月から2年初めに使用をはじめさせてところ、事務が円滑に行って3、4ヵ月の間にちょうど3万両が発行されたばかりか、正金への引き換えは至って少なかった。

しかも、これによって木綿の売買が便利になり、領民たちも大いに喜んでくれた。栄一は備中における木綿を一橋家の「物産」として育成し、その大坂への販路を開設すると同時に藩札を通用させるシステム作りにも成功したのである。

このような事務の手順が定まれば、あとは後任の者にまかせてもよい。一橋家勘定奉行が栄一に帰京を命じたので、慶応2年(1866)春、かれはふたたび勘定所へ出勤する暮らしにもどった。

その間に幕末史は、最後のコーナーめがけて暴走を開始していた。