第9話:動乱の時代に出世街道をばく進する【後編】

日本の資本主義の礎を築いた渋沢栄一。2022年に日本最高額紙幣の“顔”となる「日本資本主義の父」がどのように生まれたかを、史実第一主義の直木賞作家・中村彰彦氏が紹介する。
士分として一橋家慶喜の家臣団に加わり、安定した俸給や上司からの信頼を得た渋沢栄一。動乱の世にもかかわらず異例の出世をつづけるなか、次に着手したのは、一橋家の兵力増強、つまり人材募集・採用であった。自ら名乗り出て一橋慶喜から新たな役職を賜った渋沢栄一は、領地の村へとおもむき、自身と同様、階級を超えて農民から兵隊に志願する者をスカウトすることとした。しかし、領地を取り仕切る代官や庄屋によって妨害工作を受けてしまう。若き日の渋沢栄一が、人心を読む力と儒教の教えで磨かれた行動によって、約500名にもおよぶ増員採用を成し遂げたいきさつから、現代にも通じる「採用」と「人心掌握」のキモを読み解く(編集部)。

一橋家の人材不足の打開策として、階級を問わない有能者採用を提案する

御徒士に進んで以来、故・平岡円四郎の意向で「渋沢篤太夫(あつだゆう)」と武家風に改名していた栄一が、一橋家に馴染むにつれて奇妙に思ったのは、同家に兵力が欠けていることであった。一橋慶喜は弓馬刀槍(きゅうばとうそう)の達人およそ100人に身辺を守られており、これを「御床几(おしょうぎ)廻り」(旗本)と称していた。だが、これはあるじの護衛であって敵とわたり合える兵力ではなかった。

ほかに「御持小筒組(おもちこづつぐみ)」という小銃配備の歩兵が2小隊あったが、これは幕府が付けてくれた部隊なので、慶喜の身に危険が迫った場合、どこまで身を挺して戦ってくれるかは甚だ心許ない。

ちなみに幕末に洋式化されはじめた諸藩の兵力は、「中隊」に編制されることが多かった。1小隊の兵力は、2、30人から50人。2個小隊ないし3個小隊を合わせて「1中隊」とし、その兵力は100人前後。2個中隊か3個中隊を合わせると「大隊」となる。要するに一橋家の兵力は、「禁裡(きんり)御守衛総督」兼「摂海防禦(せっかいぼうぎょ)指揮」という肩書の仰々しさに比して、やけに寒々としたものでしかなかったのだ。

そうなってしまっていた理由としては、一橋家をふくむ「御三卿(ごさんきょう)」は、徳川御三家をプロ野球やプロサッカーチームの1軍とすれば、2軍に似た存在にすぎなかったこと、「徳川の平和(パックス・トクガワーナ)」の進行する時代に建てられた家のこととて初めから軍事力を期待されてはいなかったことなどが挙げられよう。

これらのことを訝(いぶか)しく思った栄一は、ある時黒川嘉兵衛にむかって、禁裡御守衛というからには兵力がなくては有名無実ではありませんか、といってみた。御持小筒組にしても幕府の都合で勝手に兵員を差し替えられてしまい、日々の操練によって戦闘能力の向上を期すことなどは不可能なのだ。しかし、黒川がいうには、幕府にはこれまで兵隊の借用料として月々1万5,000両を差し出し、その兵隊たちには年に5,000石をあてがってきた。これ以上兵を借用することはできないし、金のやりくりができたとしても兵には優劣があるから、ほかから優秀な兵を集めるのはむずかしい、とのこと。

「しからば私に一工夫があります」と栄一は答えた。「御領内の農民を集めて歩兵を組立てたらずいぶん千人ぐらいは出来ましょう、御話のように金の工夫が付くものなら、二大隊の兵はたちまち備えることが出来ます」(『雨夜譚』)

戦国の世は兵農分離以前の時代だったので、農閑期に農民が鎧(よろい)をまとって戦場におもむくことは当然とみなされていた。その兵農分離を推進した太閤秀吉以降も、農兵の伝統は各地に残り、土佐藩では「一領具足」、薩摩藩では「一日兵児(ひしてへこ)」と呼ばれていた。「一領具足」とは田の畔(あぜ)に具足と武器を置いておいて農事に励み、命令を受けるとすぐその具足をまとって出動する者たち、という意味。「一日兵児」とは一日武者として働くと次の日は農事にいそしむ男たち、という意味合いである。

幕末が近づいて各地の農村にも不穏な空気がひろがるにつれ、伊豆の韮山(にらやま)代官所の江川太郎左衛門(坦庵)がひろく農兵制度を起こしたことはよく知られている。長州藩領でも俗論党政権(※1)を打倒した高杉晋作が「奇兵隊」その他のいわゆる「長州諸隊」を編成し、「防長市民一同」として農民をこれに加えつつある。

栄一がこれら農兵の歴史をどこまで承知していたかは不明だが、かれは自身が農民ながら庄屋のせがれで農民たちをまとめる職務に通じていたため、農兵を募ればよい、と発想したのであろう。

一橋慶喜から直々に新たな役職を賜る

黒川嘉兵衛に頼んですでに3、4回拝謁したことのある一橋慶喜に会見させてもらった渋沢栄一は、兵備を設けるには歩兵隊の編制が第一、それには領内から農民を集めるのが最善、しかしそれには適任の者を領地へ派遣して募集の趣意をよく領民たちに会得させ、進んで応募するようにしなければなりません、その御用は是非私に、と理論的に陳弁して「歩兵取立御用掛(とりたてごようがかり)」を申し付けられた。これが元治2年(1865)2月28日のことで、この役職は黒川が用人と兼務する「軍制御用掛」に付属していた。

一橋家は、10万石の家格と前述した(※2)。その領地は関東の2万石のほか、摂津国(せっつのくに)に1万5,000石、和泉国(いずみのくに)に7、8,000石、播磨国(はりまのくに)に2万石、備中国に3万2、3,000石、と散らばっていた。前3者は大坂の川口の代官所が担当し、後一者は備中後月郡(しつきごおり)井原村のそれが統括する。

まず川口の代官所へおもむき、備中で募兵できればこちらは容易にできます、といわれて井原村に出かけたのが3月8日頃。須永という姓の者を下役として従えた栄一は、槍持ち、合羽籠持ちなどに供をさせて長棒引戸の乗物に乗っての旅だったと回想しているから、旗本並の格式であった。衣装はぶっさき羽織にたっつけ袴(ばかま)、陣笠か流行の韮山笠をかむっていたであろう。

気合の入った旗本風の装いが裏目に出て人材募集が難航

井原村の代官と各村の庄屋たちに面談して村民の次男、三男のうち志ある者を召し出すように、と説諭すると、その者たちを呼び出して直接申しわたした方がよいのでは、という返事。それでは、と庄屋に付き添われてやってきた者たちに農兵募集の趣意を言い聞かせると、思いがけない反応が返ってきた。

「付添の荘屋(ママ)がいずれ篤(とく)と申し諭しまして御奉公いたしますなら直(ただち)に御請(おうけ)に出ます、といってガラガラと戸を明(ママ)けて出てゆくという有様で、毎日毎日この通りで多人数出ては来るけれども、一人として募(つの)りに応じて兵隊に出ようという者がいない」(『雨夜譚』)という事態となったのだ。

なぜそうなるのか栄一は理解に苦しんだようだが、すでに武家社会に馴染みはじめていたかれは、農民とは領主層に対する面従腹背をためらわない者たちだ、という点を失念してしまっていたと見える。栄一は、長棒引戸の乗物で旅する自分の姿をにわか武士には不似合いと感じていた。しかし井原村の人々には領主の命令を一方的に伝えにきた<お偉いさん>にすぎず、敬して遠ざけるにしかず、と思われていたのである。

そこで栄一は手法を改め、領内の撃剣家と学者にどういう者がいるかと尋ねて、関根某(なにがし)という剣士と興譲館という学校で教授をしている漢学者・阪谷希八郎の名を知った。こう書けばもうおわかりだろう、栄一はかつて北辰一刀流・玄武館の剣術仲間や海保塾の塾生から多くの同志を募り得たことを思い出し(※4)、上下ではなく横並びの気安く物を言いあえる人間関係を築いてから兵を募り直そうとしたのだ。

その線に沿って阪谷とその弟子たちと時事を談じたり宴会をひらいたりして、おもに開国論と再鎖国論の是非を論じると、阪谷は開国を主張して痛飲。関根某とは手合わせすると栄一が勝ってしまい、「この頃来て居る御役人は通常の俗吏(ぞくり/※3)ではない、学問といい剣術といいなかなかあっぱれの手際である」(同)と噂が立って、近在の村から文武に心得のある少年たちが毎日訪ねてくるようになった。

農兵募集に見せた視野の広さと人心掌握術

その少年たちや興譲館の書生たちと漁師が網で鯛を獲る「鯛網(たいあみ)」を見物しにゆき、その鯛を料理してもらって酒を飲み、詩を吟じるうちに、井原村から2人、他の村から数人の奉公希望者があらわれた。それでもほかの数十ヵ村からは反応がないので、これは庄屋たちを背後から掣肘(せいちゅう/※5)している者がいるな、と読んだ栄一は、庄屋たちを集めて決めつけるように告げた。

「乃公(おれ)はこれまでの一橋の家来のように普通一般の食録を貪って無事を安んじて居る役人と思うと大きな間違(まちがい)であるぞ。事と品によっては荘屋(ママ)の十人や十五人を斬り殺すぐらいの事は何とも思わぬから、各方(おのおのがた)においても余りグズグズするとそのままには決して差置(さしお)かれぬ、【略】察する処(ところ)陣屋(代官所)の役人がかれこれ面倒を厭(いと)うて掣肘して居るのであろうが【略】、果してそういうことがあるとすれば、代官であろうが毛頭容赦はしない。【略】今この通り自分の赤心(※6)を打ち明けて話したから、各々にも包み隠さずにこれまでの機密を陳述したがよい」(『雨夜譚』)と談じると、とても包み隠しはできないと見て庄屋たちが事情を打ち明けた。

お代官がかねがね我々におっしゃるには、黒川嘉兵衛さまには山師根性があり、村々へ種々面倒な事を申しつけることがある。それに服従していると難儀なことになるから、なるたけ敬して遠ざけるのがよい、とのことでした。そのため今度の歩兵取り立てについてもひとりも志願する者はいないといえばそれで済むと思い、希望者は実は沢山ありあましたがひとりも願い出ないと申したのです。しかるに旦那様(栄一)が書生や撃剣家を敬愛なされるので、旦那様に直(じか)に農兵になりたいと内願する者もあらわれ、みはやわれわれに内願者を押さえることはできません。でも今申し上げたことは、お代官には何卒内分に願います。

――ではその方たちの迷惑にならぬよう代官に談じることにしよう。そう応じた栄一は、代官と談判。志願者がないのは人撰の仕方が悪いか代官の平生の薫陶が悪いからだ、自分がかかる重大な御用で出張してきたのに農兵が募れなかった時はその理由を明らかにせねばならず、その時は貴殿にいかなる迷惑を及ぼすかわからない、というと、代官は委細承知しました、と態度を改めた。

すると続々と志願者が集まりはじめ、200以上に到達。播州、摂州、泉州でも応募者が相つぎ、全体で456、7人となったので、一橋家は7月に大隊編制の洋式部隊(2大隊か)を発足させることができた。

儒教の精神に磨かれた行動が真のリーダーシップと任務遂行能力を高める

渋沢栄一には白銀5枚と時服1領(※7)が褒美として与えられたが、この行動は栄一が功を立てた初例であると同時に、よく人間関係を理解した上で人材を集め、組織化する能力があることを充分に示したケースでもあった。現代風にいえば、栄一はリーダーシップをよく発揮してみせたのである。

「それのみではなく、此行(このこう)の道すがら、栄一は人情風俗の視察に力(つと)めて、芸能ある者、農商の道に功のあつた者、孝子・節婦・義僕等を調査し、之を具申して褒賞を請ひ、遂に允(ゆる)されて栄典の沙汰が行はれたといふ」(幸田露伴『渋沢栄一伝』)

親孝行な者や忠義な者を評価するのは、儒学の教えである。26歳になった栄一は、かねて学んだ儒学の精神を行動よって表現できるふところの深さを身につけるようになっていたのであった。


【編集部注】
※1:俗論党【ぞくろんとう】元治元年(1864)、「第一次長州征伐」の際、長州藩論を尊王討幕に統一しようとしたのに対して、あくまで幕府に恭順、謝罪しようと唱えた一派。
※2:「一橋家の家格」⇒第4話参照
※3:俗吏【ぞくり】つまらない事務を扱う役人。また、役人を嘲って呼ぶ蔑称。
※4:「北辰一刀流・玄武館と海保塾」⇒第3話参照
※5:掣肘【せいちゅう】人のわきから干渉して自由な行動を妨げること。
※6:赤心【せきしん】嘘いつわりのない、ありのままの心。まごころ。
※7:時服【じふく】毎年、春秋もしくは夏冬の2季に、朝廷や将軍から家臣が賜った衣服のこと。「時衣【じい】」ともいう