
日本の資本主義の礎を築いた渋沢栄一。2022年に日本最高額紙幣の“顔”となる「日本資本主義の父」がどのように生まれたかを、史実第一主義の直木賞作家・中村彰彦氏が紹介する。
士分として一橋家慶喜の家臣団に加わり、安定した俸給や上司からの信頼を得た渋沢栄一。動乱の世にもかかわらず異例の出世をつづけるなか、次に着手したのは、一橋家の兵力増強、つまり人材募集・採用であった。自ら名乗り出て一橋慶喜から新たな役職を賜った渋沢栄一は、領地の村へとおもむき、自身と同様、階級を超えて農民から兵隊に志願する者をスカウトすることとした。しかし、領地を取り仕切る代官や庄屋によって妨害工作を受けてしまう。若き日の渋沢栄一が、人心を読む力と儒教の教えで磨かれた行動によって、約500名にもおよぶ増員採用を成し遂げたいきさつから、現代にも通じる「採用」と「人心掌握」のキモを読み解く(編集部)。
士分として一橋家慶喜の家臣団に加わり、安定した俸給や上司からの信頼を得た渋沢栄一。動乱の世にもかかわらず異例の出世をつづけるなか、次に着手したのは、一橋家の兵力増強、つまり人材募集・採用であった。自ら名乗り出て一橋慶喜から新たな役職を賜った渋沢栄一は、領地の村へとおもむき、自身と同様、階級を超えて農民から兵隊に志願する者をスカウトすることとした。しかし、領地を取り仕切る代官や庄屋によって妨害工作を受けてしまう。若き日の渋沢栄一が、人心を読む力と儒教の教えで磨かれた行動によって、約500名にもおよぶ増員採用を成し遂げたいきさつから、現代にも通じる「採用」と「人心掌握」のキモを読み解く(編集部)。
一橋家の人材不足の打開策として、階級を問わない有能者採用を提案する
御徒士に進んで以来、故・平岡円四郎の意向で「渋沢篤太夫(あつだゆう)」と武家風に改名していた栄一が、一橋家に馴染むにつれて奇妙に思ったのは、同家に兵力が欠けていることであった。一橋慶喜は弓馬刀槍(きゅうばとうそう)の達人およそ100人に身辺を守られており、これを「御床几(おしょうぎ)廻り」(旗本)と称していた。だが、これはあるじの護衛であって敵とわたり合える兵力ではなかった。
ほかに「御持小筒組(おもちこづつぐみ)」という小銃配備の歩兵が2小隊あったが、これは幕府が付けてくれた部隊なので、慶喜の身に危険が迫った場合、どこまで身を挺して戦ってくれるかは甚だ心許ない。
ちなみに幕末に洋式化されはじめた諸藩の兵力は、「中隊」に編制されることが多かった。1小隊の兵力は、2、30人から50人。2個小隊ないし3個小隊を合わせて「1中隊」とし、その兵力は100人前後。2個中隊か3個中隊を合わせると「大隊」となる。要するに一橋家の兵力は、「禁裡(きんり)御守衛総督」兼「摂海防禦(せっかいぼうぎょ)指揮」という肩書の仰々しさに比して、やけに寒々としたものでしかなかったのだ。
そうなってしまっていた理由としては、一橋家をふくむ「御三卿(ごさんきょう)」は、徳川御三家をプロ野球やプロサッカーチームの1軍とすれば、2軍に似た存在にすぎなかったこと、「徳川の平和(パックス・トクガワーナ)」の進行する時代に建てられた家のこととて初めから軍事力を期待されてはいなかったことなどが挙げられよう。
これらのことを訝(いぶか)しく思った栄一は、ある時黒川嘉兵衛にむかって、禁裡御守衛というからには兵力がなくては有名無実ではありませんか、といってみた。御持小筒組にしても幕府の都合で勝手に兵員を差し替えられてしまい、日々の操練によって戦闘能力の向上を期すことなどは不可能なのだ。しかし、黒川がいうには、幕府にはこれまで兵隊の借用料として月々1万5,000両を差し出し、その兵隊たちには年に5,000石をあてがってきた。これ以上兵を借用することはできないし、金のやりくりができたとしても兵には優劣があるから、ほかから優秀な兵を集めるのはむずかしい、とのこと。
「しからば私に一工夫があります」と栄一は答えた。「御領内の農民を集めて歩兵を組立てたらずいぶん千人ぐらいは出来ましょう、御話のように金の工夫が付くものなら、二大隊の兵はたちまち備えることが出来ます」(『雨夜譚』)
戦国の世は兵農分離以前の時代だったので、農閑期に農民が鎧(よろい)をまとって戦場におもむくことは当然とみなされていた。その兵農分離を推進した太閤秀吉以降も、農兵の伝統は各地に残り、土佐藩では「一領具足」、薩摩藩では「一日兵児(ひしてへこ)」と呼ばれていた。「一領具足」とは田の畔(あぜ)に具足と武器を置いておいて農事に励み、命令を受けるとすぐその具足をまとって出動する者たち、という意味。「一日兵児」とは一日武者として働くと次の日は農事にいそしむ男たち、という意味合いである。
幕末が近づいて各地の農村にも不穏な空気がひろがるにつれ、伊豆の韮山(にらやま)代官所の江川太郎左衛門(坦庵)がひろく農兵制度を起こしたことはよく知られている。長州藩領でも俗論党政権(※1)を打倒した高杉晋作が「奇兵隊」その他のいわゆる「長州諸隊」を編成し、「防長市民一同」として農民をこれに加えつつある。
栄一がこれら農兵の歴史をどこまで承知していたかは不明だが、かれは自身が農民ながら庄屋のせがれで農民たちをまとめる職務に通じていたため、農兵を募ればよい、と発想したのであろう。
ほかに「御持小筒組(おもちこづつぐみ)」という小銃配備の歩兵が2小隊あったが、これは幕府が付けてくれた部隊なので、慶喜の身に危険が迫った場合、どこまで身を挺して戦ってくれるかは甚だ心許ない。
ちなみに幕末に洋式化されはじめた諸藩の兵力は、「中隊」に編制されることが多かった。1小隊の兵力は、2、30人から50人。2個小隊ないし3個小隊を合わせて「1中隊」とし、その兵力は100人前後。2個中隊か3個中隊を合わせると「大隊」となる。要するに一橋家の兵力は、「禁裡(きんり)御守衛総督」兼「摂海防禦(せっかいぼうぎょ)指揮」という肩書の仰々しさに比して、やけに寒々としたものでしかなかったのだ。
そうなってしまっていた理由としては、一橋家をふくむ「御三卿(ごさんきょう)」は、徳川御三家をプロ野球やプロサッカーチームの1軍とすれば、2軍に似た存在にすぎなかったこと、「徳川の平和(パックス・トクガワーナ)」の進行する時代に建てられた家のこととて初めから軍事力を期待されてはいなかったことなどが挙げられよう。
これらのことを訝(いぶか)しく思った栄一は、ある時黒川嘉兵衛にむかって、禁裡御守衛というからには兵力がなくては有名無実ではありませんか、といってみた。御持小筒組にしても幕府の都合で勝手に兵員を差し替えられてしまい、日々の操練によって戦闘能力の向上を期すことなどは不可能なのだ。しかし、黒川がいうには、幕府にはこれまで兵隊の借用料として月々1万5,000両を差し出し、その兵隊たちには年に5,000石をあてがってきた。これ以上兵を借用することはできないし、金のやりくりができたとしても兵には優劣があるから、ほかから優秀な兵を集めるのはむずかしい、とのこと。
「しからば私に一工夫があります」と栄一は答えた。「御領内の農民を集めて歩兵を組立てたらずいぶん千人ぐらいは出来ましょう、御話のように金の工夫が付くものなら、二大隊の兵はたちまち備えることが出来ます」(『雨夜譚』)
戦国の世は兵農分離以前の時代だったので、農閑期に農民が鎧(よろい)をまとって戦場におもむくことは当然とみなされていた。その兵農分離を推進した太閤秀吉以降も、農兵の伝統は各地に残り、土佐藩では「一領具足」、薩摩藩では「一日兵児(ひしてへこ)」と呼ばれていた。「一領具足」とは田の畔(あぜ)に具足と武器を置いておいて農事に励み、命令を受けるとすぐその具足をまとって出動する者たち、という意味。「一日兵児」とは一日武者として働くと次の日は農事にいそしむ男たち、という意味合いである。
幕末が近づいて各地の農村にも不穏な空気がひろがるにつれ、伊豆の韮山(にらやま)代官所の江川太郎左衛門(坦庵)がひろく農兵制度を起こしたことはよく知られている。長州藩領でも俗論党政権(※1)を打倒した高杉晋作が「奇兵隊」その他のいわゆる「長州諸隊」を編成し、「防長市民一同」として農民をこれに加えつつある。
栄一がこれら農兵の歴史をどこまで承知していたかは不明だが、かれは自身が農民ながら庄屋のせがれで農民たちをまとめる職務に通じていたため、農兵を募ればよい、と発想したのであろう。
一橋慶喜から直々に新たな役職を賜る
黒川嘉兵衛に頼んですでに3、4回拝謁したことのある一橋慶喜に会見させてもらった渋沢栄一は、兵備を設けるには歩兵隊の編制が第一、それには領内から農民を集めるのが最善、しかしそれには適任の者を領地へ派遣して募集の趣意をよく領民たちに会得させ、進んで応募するようにしなければなりません、その御用は是非私に、と理論的に陳弁して「歩兵取立御用掛(とりたてごようがかり)」を申し付けられた。これが元治2年(1865)2月28日のことで、この役職は黒川が用人と兼務する「軍制御用掛」に付属していた。
一橋家は、10万石の家格と前述した(※2)。その領地は関東の2万石のほか、摂津国(せっつのくに)に1万5,000石、和泉国(いずみのくに)に7、8,000石、播磨国(はりまのくに)に2万石、備中国に3万2、3,000石、と散らばっていた。前3者は大坂の川口の代官所が担当し、後一者は備中後月郡(しつきごおり)井原村のそれが統括する。
まず川口の代官所へおもむき、備中で募兵できればこちらは容易にできます、といわれて井原村に出かけたのが3月8日頃。須永という姓の者を下役として従えた栄一は、槍持ち、合羽籠持ちなどに供をさせて長棒引戸の乗物に乗っての旅だったと回想しているから、旗本並の格式であった。衣装はぶっさき羽織にたっつけ袴(ばかま)、陣笠か流行の韮山笠をかむっていたであろう。
一橋家は、10万石の家格と前述した(※2)。その領地は関東の2万石のほか、摂津国(せっつのくに)に1万5,000石、和泉国(いずみのくに)に7、8,000石、播磨国(はりまのくに)に2万石、備中国に3万2、3,000石、と散らばっていた。前3者は大坂の川口の代官所が担当し、後一者は備中後月郡(しつきごおり)井原村のそれが統括する。
まず川口の代官所へおもむき、備中で募兵できればこちらは容易にできます、といわれて井原村に出かけたのが3月8日頃。須永という姓の者を下役として従えた栄一は、槍持ち、合羽籠持ちなどに供をさせて長棒引戸の乗物に乗っての旅だったと回想しているから、旗本並の格式であった。衣装はぶっさき羽織にたっつけ袴(ばかま)、陣笠か流行の韮山笠をかむっていたであろう。
お気に入りに登録