テロリストの最期を教訓に、さらに慎重派へと変わる渋沢栄一
ここで明治時代後半にさかんになる幕末史編纂事業と渋沢栄一とのかかわりに触れるならば、栄一が『徳川慶喜公伝』を編集出版したという事実を第一等に挙げるべきであろう。
栄一が同書中で当時の慶喜の立場を釈明しているのは注目に値するが、考えてみれば栄一が横浜焼き打ちなど実行したら天狗党とおなじ最期となったわけだから、一連の処刑は栄一にとっても重い衝撃だったに違いない。
幸田露伴が「これより後は著(いちじる)しく道理詰めに事を運ぼうとし、苟(いやしく)も権道、険危の路を取るを避くる栄一一個の風格を現し出すに至つたのである」(『渋沢栄一伝』)と結論づけているのは、天狗党の破滅を間近に見て以来、栄一がより慎重な人間になったことを指摘しているのである。
たとえば、元治元年12月に京へもどってまもなく正月を迎えた栄一は、黒川嘉兵衛の下役として諸藩の士との酒宴につらなる機会がいやに多くなった。しかし古来、酒と女で身を滅ぼした例は珍しくない。それを思ってのことであろう、50歳近い黒川と26歳の栄一は一切酒は飲まず、芸者も近づけない、と互いに約束したものであった。
ところが元治2年の正月の間に黒川と「鴨東(こうとう)のある家(料亭兼宿屋のことか)」にゆき、酒宴もおわって泊まることになると、いつもとは違う部屋に案内された。しかもすでに布団が敷かれていて、婦人がひとりいる。どういうわけかと仲居に尋ねてみると、その仲居は黒川のことを「大夫さん」と呼んで答えた。「大夫さんがあなたに御気の毒だから、女を一人とりもつとの事であります」
怒った栄一が三条小橋の長屋へ帰ってゆくと、黒川が追いかけてきて、「今夜は誠に失礼した」と真面目にいった。対して栄一は、おれを女で試す気か、と居直ったりはせず、黒川を傷つけない答え方をした。「せっかくの御厚意を空しくして誠に相すみませぬ」この返事に感心して、黒川はいった。「イヤはなはだ恥入った次第であった、ドウカ人はそうありたいもの、実にそれでこそ大事が頼める」
栄一が同書中で当時の慶喜の立場を釈明しているのは注目に値するが、考えてみれば栄一が横浜焼き打ちなど実行したら天狗党とおなじ最期となったわけだから、一連の処刑は栄一にとっても重い衝撃だったに違いない。
幸田露伴が「これより後は著(いちじる)しく道理詰めに事を運ぼうとし、苟(いやしく)も権道、険危の路を取るを避くる栄一一個の風格を現し出すに至つたのである」(『渋沢栄一伝』)と結論づけているのは、天狗党の破滅を間近に見て以来、栄一がより慎重な人間になったことを指摘しているのである。
たとえば、元治元年12月に京へもどってまもなく正月を迎えた栄一は、黒川嘉兵衛の下役として諸藩の士との酒宴につらなる機会がいやに多くなった。しかし古来、酒と女で身を滅ぼした例は珍しくない。それを思ってのことであろう、50歳近い黒川と26歳の栄一は一切酒は飲まず、芸者も近づけない、と互いに約束したものであった。
ところが元治2年の正月の間に黒川と「鴨東(こうとう)のある家(料亭兼宿屋のことか)」にゆき、酒宴もおわって泊まることになると、いつもとは違う部屋に案内された。しかもすでに布団が敷かれていて、婦人がひとりいる。どういうわけかと仲居に尋ねてみると、その仲居は黒川のことを「大夫さん」と呼んで答えた。「大夫さんがあなたに御気の毒だから、女を一人とりもつとの事であります」
怒った栄一が三条小橋の長屋へ帰ってゆくと、黒川が追いかけてきて、「今夜は誠に失礼した」と真面目にいった。対して栄一は、おれを女で試す気か、と居直ったりはせず、黒川を傷つけない答え方をした。「せっかくの御厚意を空しくして誠に相すみませぬ」この返事に感心して、黒川はいった。「イヤはなはだ恥入った次第であった、ドウカ人はそうありたいもの、実にそれでこそ大事が頼める」
収入4倍の大出世を果たす
以上のやりとりは『雨夜譚』からの引用だが、この1件で栄一は黒川をトップとする「一橋家用人」という名の重役たちの信用を得、役に立つ男とみなされるに至った。翌2月に早くも御徒士から「小十人(こじゅうにん)」の身分に進んだのは、そのあらわれである。
「御目見(おめみえ)」以上の「小十人」の禄高は、17石5人扶持に月俸として13両2分。仕官当初は4石2人扶持と月々4両1分だったのだから、わずか1年で禄高は4倍以上、月俸は3倍以上になった計算である。
職務も「御用談所下役」から「出役(しゅつやく)」に進んだから、栄一は一種の外交官になったと考えてよい。
しかし、諸藩の京都詰めの者たちは、遊泳術に長じた者ばかり。こんな連中とつき合っていても仕方ない、と思った栄一は、「何か微(すこ)しく世の中に効能のあるような仕事をせんければ奉公した甲斐はない」と考え直すうちに、ある趣向を思いついた。【つづく】
「御目見(おめみえ)」以上の「小十人」の禄高は、17石5人扶持に月俸として13両2分。仕官当初は4石2人扶持と月々4両1分だったのだから、わずか1年で禄高は4倍以上、月俸は3倍以上になった計算である。
職務も「御用談所下役」から「出役(しゅつやく)」に進んだから、栄一は一種の外交官になったと考えてよい。
しかし、諸藩の京都詰めの者たちは、遊泳術に長じた者ばかり。こんな連中とつき合っていても仕方ない、と思った栄一は、「何か微(すこ)しく世の中に効能のあるような仕事をせんければ奉公した甲斐はない」と考え直すうちに、ある趣向を思いついた。【つづく】
※1 尊攘激派【そんじょうげきは】:幕末の水戸藩や長州藩その他で展開された「尊王攘夷」運動のなかで、幕府の命令よりも勅命(天皇の命令)を重んじて行動した過激な一部の派閥のこと。
※2 薩会同盟【さっかいどうめい】:公武合体派の薩摩藩・会津藩が結んだ同盟。文久3年(1863)に宮廷クーデタ「8月18日の政変」を起こし、在京の長州藩士および三条実美ら7人の尊攘激派公卿を京から追放した。
※3 公武合体派【こうぶがったいは】:江戸末期、鎖国撤廃や修好通商条約の締結以降、動揺を続ける幕藩体制を、朝廷の伝統的権威と結びつくことによって建て直そうとした政治運動。尊攘激派による過激な武力行動に対抗した諸藩のこと。
※4 領袖格【りょうしゅうかく】:人を率いることができる、またはある集団の中核となる人物のこと。
※5 禁闕【きんけつ】:御所(皇居)の門、または、御所(皇居)自体のこと。「禁門」と同義。
※6 酷刑【こくけい】:むごい処罰、ひどすぎる刑罰のこと。
※7 安政の大獄【あんせいのたいごく】:安政5~6年(1858~59)、大老・井伊直弼(彦根藩主)が行った尊攘派(14代将軍・家茂継嗣問題に反対する雄藩大名・公卿・幕臣・諸藩士ら)を弾圧した事件。橋本左内,吉田松陰ら8名が処刑され、水戸藩主・徳川斉昭父子らも処罰。連座者は100名を超す。この酷刑がのちの「桜田門外の変(1860)」のきっかけとなる。
※2 薩会同盟【さっかいどうめい】:公武合体派の薩摩藩・会津藩が結んだ同盟。文久3年(1863)に宮廷クーデタ「8月18日の政変」を起こし、在京の長州藩士および三条実美ら7人の尊攘激派公卿を京から追放した。
※3 公武合体派【こうぶがったいは】:江戸末期、鎖国撤廃や修好通商条約の締結以降、動揺を続ける幕藩体制を、朝廷の伝統的権威と結びつくことによって建て直そうとした政治運動。尊攘激派による過激な武力行動に対抗した諸藩のこと。
※4 領袖格【りょうしゅうかく】:人を率いることができる、またはある集団の中核となる人物のこと。
※5 禁闕【きんけつ】:御所(皇居)の門、または、御所(皇居)自体のこと。「禁門」と同義。
※6 酷刑【こくけい】:むごい処罰、ひどすぎる刑罰のこと。
※7 安政の大獄【あんせいのたいごく】:安政5~6年(1858~59)、大老・井伊直弼(彦根藩主)が行った尊攘派(14代将軍・家茂継嗣問題に反対する雄藩大名・公卿・幕臣・諸藩士ら)を弾圧した事件。橋本左内,吉田松陰ら8名が処刑され、水戸藩主・徳川斉昭父子らも処罰。連座者は100名を超す。この酷刑がのちの「桜田門外の変(1860)」のきっかけとなる。
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