
日本の資本主義の礎を築いた渋沢栄一。2022年に日本最高額紙幣の“顔”となる「日本資本主義の父」がどのように生まれたかを、史実第一主義の直木賞作家・中村彰彦氏が紹介する。
農民から士分へ階級を超えたキャリアアップを果たした渋沢栄一は、一橋家慶喜の家臣団に加わることとなった。安定した俸給や上司からの信頼を得たが、幕末の日本は幕政に対する反発からテロや政変が相次ぎ、まさに動乱の時代に突入していた。水戸藩出身である一橋慶喜は、権力の中心人物となった反面、尊攘激派からは目の敵にされ、窮地に陥った。そんな中、新たな上司・黒川嘉兵衛に目を掛けられた渋沢栄一は、さらなるステップアップを遂げ、異例の出世街道をばく進することとなる。混迷を極める幕末京都の時代背景を追いながら、栄一の冷静さ、慎重さが培われていく様子を、エピソードを追って見てゆく(編集部)
。
農民から士分へ階級を超えたキャリアアップを果たした渋沢栄一は、一橋家慶喜の家臣団に加わることとなった。安定した俸給や上司からの信頼を得たが、幕末の日本は幕政に対する反発からテロや政変が相次ぎ、まさに動乱の時代に突入していた。水戸藩出身である一橋慶喜は、権力の中心人物となった反面、尊攘激派からは目の敵にされ、窮地に陥った。そんな中、新たな上司・黒川嘉兵衛に目を掛けられた渋沢栄一は、さらなるステップアップを遂げ、異例の出世街道をばく進することとなる。混迷を極める幕末京都の時代背景を追いながら、栄一の冷静さ、慎重さが培われていく様子を、エピソードを追って見てゆく(編集部)
。
渋沢栄一の新たな上司・黒川嘉兵衛と、事件の嵐が押し寄せる幕末京都の状況
文久3年(1863)「8月18日の政変」の結果、京から追放された長州尊攘激派(※1)がもっとも憎んだのは、「京都守護職」として激派を摘発しつづける会津藩主・松平容保(かたもり)であった。ひそかに京へ潜伏して容保を追討すべしと考えたその一部は、元治元年(1864)6月4日、三条小橋の西の橋詰めの池田屋に集まって策を練っていたところを新選組に踏みこまれ、死者14、捕縛10の被害を出してしまった。
同14日、その凶報が届いた長州藩は、すでに上京許可を得たため京へむかうことになっていた家老・国司信濃(くにし しなの)、おなじく福原越後のほか第3の家老・益田右衛門介(うえもんのすけ)の部隊も派遣して薩会同盟(※2)に挑戦すると決定。7月19日早朝、長州からの遠征軍1,600は御所に押し寄せ、御所の諸門を守る公武合体派(※3)の兵力相手に兵端をひらいた。「禁門の変」ないし「蛤御門(はまぐりごもん)の変」として、日本史の教科書にゴシック体で表記される戦いがこれである。
長州兵は諸門のひとつとして奪うことができず、敗走して領袖格(※4)のひとり久坂玄瑞(くさか げんずい)は負傷、自刃。烏丸(からすま)辺と河原町の長州藩邸から出た火は下京(しもぎょう)を中心に燃えひろがり、約2万8,000戸を焼き尽くした。
長州軍にまじっていた久留米藩の尊攘激派・真木和泉(まき いずみ)は、決死隊17人を率いて山崎の天王山にあえて残留し、21日に追討軍が迫るや火薬で自爆。「禁門の変」は、公武合体派勢力の大勝利におわった。
渋沢栄一たちが人材募集の旅から帰郷したのは9月18日のことだから、京は公武合体派の天下である。一橋慶喜も「禁裡御守衛総督」の名に違(たが)わず御所を守り切るのに成功したわけだからおのずと威勢をまし、御用談所詰めの者たちも諸藩の周旋方(外交官)から宴会に招かれたりするようになっていた。
その9月に栄一の身分は1級進み、「御徒士(おかち)」になった。禄高は8石2人扶持(ぶち)、京都滞在中にはこれに月々6両が上乗せされる。
そのころ、殺害された平岡円四郎に代わる一橋家の用人として政務を執るようになっていたのは、元幕府の「御小人目付(おこびとめつけ)」だった黒川嘉兵衛(かへえ)である。その黒川が、「及ばずながら拙者もここに職を奉ずる以上は、足下からの志も立つように、使えるだけ使って遣(や)るから必ず力を落とさずに勉強したがよい」(『雨夜譚〈あまよがたり〉』)と親切にいってくれたこともあって、栄一たちは気を取り直すことができた。
同14日、その凶報が届いた長州藩は、すでに上京許可を得たため京へむかうことになっていた家老・国司信濃(くにし しなの)、おなじく福原越後のほか第3の家老・益田右衛門介(うえもんのすけ)の部隊も派遣して薩会同盟(※2)に挑戦すると決定。7月19日早朝、長州からの遠征軍1,600は御所に押し寄せ、御所の諸門を守る公武合体派(※3)の兵力相手に兵端をひらいた。「禁門の変」ないし「蛤御門(はまぐりごもん)の変」として、日本史の教科書にゴシック体で表記される戦いがこれである。
長州兵は諸門のひとつとして奪うことができず、敗走して領袖格(※4)のひとり久坂玄瑞(くさか げんずい)は負傷、自刃。烏丸(からすま)辺と河原町の長州藩邸から出た火は下京(しもぎょう)を中心に燃えひろがり、約2万8,000戸を焼き尽くした。
長州軍にまじっていた久留米藩の尊攘激派・真木和泉(まき いずみ)は、決死隊17人を率いて山崎の天王山にあえて残留し、21日に追討軍が迫るや火薬で自爆。「禁門の変」は、公武合体派勢力の大勝利におわった。
渋沢栄一たちが人材募集の旅から帰郷したのは9月18日のことだから、京は公武合体派の天下である。一橋慶喜も「禁裡御守衛総督」の名に違(たが)わず御所を守り切るのに成功したわけだからおのずと威勢をまし、御用談所詰めの者たちも諸藩の周旋方(外交官)から宴会に招かれたりするようになっていた。
その9月に栄一の身分は1級進み、「御徒士(おかち)」になった。禄高は8石2人扶持(ぶち)、京都滞在中にはこれに月々6両が上乗せされる。
そのころ、殺害された平岡円四郎に代わる一橋家の用人として政務を執るようになっていたのは、元幕府の「御小人目付(おこびとめつけ)」だった黒川嘉兵衛(かへえ)である。その黒川が、「及ばずながら拙者もここに職を奉ずる以上は、足下からの志も立つように、使えるだけ使って遣(や)るから必ず力を落とさずに勉強したがよい」(『雨夜譚〈あまよがたり〉』)と親切にいってくれたこともあって、栄一たちは気を取り直すことができた。
水戸藩士の謀反による一橋慶喜の苦悩
この頃の幕府は2つの問題を抱えていた。ひとつは、御所へ大砲まで撃ちこんで天下の賊徒となった長州藩をいかにして追討するか、という問題(いわゆる「第一次長州追討」)。すると長州藩内部では、尊攘激派から「俗論派」と呼ばれた対幕府恭順を主張する派閥が抬頭(たいとう)。11月11日から翌日にかけて国司信濃24歳、益田右衛門介32歳、福原越後50歳の3家老を切腹させ、投獄してあった4人の参謀も斬に処してそれらの首を幕府側に差し出してみせた。
これによって「第一次長州追討」は戦端をひらくことなくおわったわけだが、上の交渉がつづく間に関東では筑波山に挙兵した「天狗党」が大きく動き出していた。一橋慶喜を頼って京まで行軍し、慶喜から天皇に自分たちの攘夷の素志を伝えてもらおうとして、10月中に西上と決定。武田耕雲斎を主将として信濃路、美濃路を行軍し、近隣諸藩と交戦しながらついに越前の敦賀(つるが)に至ったのである。
しかし、幕府の許可なく兵を動かした行為は「謀反(むほん)」とみなされても止むを得ない。水戸藩徳川家出身の慶喜としては「悪女の深情け」ではないが、幕府の特別職にありながら謀反人に頼られるという困った立場に置かれてしまった。栄一は、このときの慶喜の動きについて次のように回想している。
「幕府は既にこれ(=天狗党)を賊として田沼玄蕃頭(げんばのかみ/相良〈さがら〉藩主)意尊(おきたか)の手で軍兵(ぐんびょう)を差向けたから、沿道の諸藩においても皆兵隊を繰り出してこれを防止するという現状になった。それゆえ一橋公も傍観することは出来ぬ、やむを得ず朝廷へお願いの上、自(みず)から軍兵を総督して御出馬になったので、その先鋒の大将には、その頃京都に滞在中の水戸の民部公子(みんぶこうし/徳川昭武〈あきたけ〉。斉昭の第18子、慶喜の弟、官職は民部大輔〈たいふ〉)が向われた。全体この御出馬は、浪士の末路を偵察して置いて途中でこれを鎮圧してしまって決して禁闕(きんけつ/※5)の下を憂擾(そうじょう)させないという神算(しんざん)であった。ところが公が海津まで進まれた日に浪士どもは越前の今庄(いましょう)で加賀の隊長永原甚七郎という人の手へ降伏の事を申し入れた。永原は早速その処置を一橋公へ伺い出たによって、公はその降人(こうにん)の兵器を取上げ加賀藩においてこれを警固して、不日さらに田沼玄蕃頭の手へ引渡すべき旨を命ぜられてまずその一段落が付いたから、十二月末に京へ御帰陣になりました」(『雨夜譚』)
慶喜が12月3日に出馬したとき、栄一は黒川嘉兵衛の手に属して同行した。そのため、頼信・昭武兄弟の動きがよく頭に入っているのである。
ところが元治2年(1865)2月、天狗党の800余名をそれまで厠(かわや)もない鰊蔵(にしんぐら)に幽閉しておいた田沼意尊は、彼らを酷刑(※6)に処した。耕雲斎、藤田小四郎ら352人は斬罪か死罪。西上せず降伏した1,000人からも43人が切腹か斬首になったほか、数100人が獄死し、「安政の大獄(※7)」以来の水戸藩の死者数はなんと1,500人以上に達する始末(『水戸藩死事録・義烈伝纂稿』)。
栄一は田沼意尊のこの一連の行動を「酸鼻な話」と批判しているが、これはまったくその通り。意尊はかつて賄賂政治をおこなって失脚した老中・田沼意次(おきつぐ)、そのせがれで不品行の末に江戸内で番士に斬られた若年寄・田沼意知(おきとも)の血筋だから、田沼家の悪名を雪(そそ)ごうとして過激な判断に及んだ可能性が高い。
ただし、当時このような見解は生まれず、慶喜は同郷の天狗党に救いの手を差しのべようとしなかった不人情な男だ、とする非難ばかりがひろく世におこなわれた。西郷吉之助(のちの隆盛)や大久保一蔵(いちぞう/のちの利通)が慶喜の非情を「幕府の非情」とみなして幕府を見限り、倒幕を決意したのもこの天狗党の処分を知ってのことだといえば、死せる天狗党が幕末史の流れに与えた影響の強さが知れよう。
これによって「第一次長州追討」は戦端をひらくことなくおわったわけだが、上の交渉がつづく間に関東では筑波山に挙兵した「天狗党」が大きく動き出していた。一橋慶喜を頼って京まで行軍し、慶喜から天皇に自分たちの攘夷の素志を伝えてもらおうとして、10月中に西上と決定。武田耕雲斎を主将として信濃路、美濃路を行軍し、近隣諸藩と交戦しながらついに越前の敦賀(つるが)に至ったのである。
しかし、幕府の許可なく兵を動かした行為は「謀反(むほん)」とみなされても止むを得ない。水戸藩徳川家出身の慶喜としては「悪女の深情け」ではないが、幕府の特別職にありながら謀反人に頼られるという困った立場に置かれてしまった。栄一は、このときの慶喜の動きについて次のように回想している。
「幕府は既にこれ(=天狗党)を賊として田沼玄蕃頭(げんばのかみ/相良〈さがら〉藩主)意尊(おきたか)の手で軍兵(ぐんびょう)を差向けたから、沿道の諸藩においても皆兵隊を繰り出してこれを防止するという現状になった。それゆえ一橋公も傍観することは出来ぬ、やむを得ず朝廷へお願いの上、自(みず)から軍兵を総督して御出馬になったので、その先鋒の大将には、その頃京都に滞在中の水戸の民部公子(みんぶこうし/徳川昭武〈あきたけ〉。斉昭の第18子、慶喜の弟、官職は民部大輔〈たいふ〉)が向われた。全体この御出馬は、浪士の末路を偵察して置いて途中でこれを鎮圧してしまって決して禁闕(きんけつ/※5)の下を憂擾(そうじょう)させないという神算(しんざん)であった。ところが公が海津まで進まれた日に浪士どもは越前の今庄(いましょう)で加賀の隊長永原甚七郎という人の手へ降伏の事を申し入れた。永原は早速その処置を一橋公へ伺い出たによって、公はその降人(こうにん)の兵器を取上げ加賀藩においてこれを警固して、不日さらに田沼玄蕃頭の手へ引渡すべき旨を命ぜられてまずその一段落が付いたから、十二月末に京へ御帰陣になりました」(『雨夜譚』)
慶喜が12月3日に出馬したとき、栄一は黒川嘉兵衛の手に属して同行した。そのため、頼信・昭武兄弟の動きがよく頭に入っているのである。
ところが元治2年(1865)2月、天狗党の800余名をそれまで厠(かわや)もない鰊蔵(にしんぐら)に幽閉しておいた田沼意尊は、彼らを酷刑(※6)に処した。耕雲斎、藤田小四郎ら352人は斬罪か死罪。西上せず降伏した1,000人からも43人が切腹か斬首になったほか、数100人が獄死し、「安政の大獄(※7)」以来の水戸藩の死者数はなんと1,500人以上に達する始末(『水戸藩死事録・義烈伝纂稿』)。
栄一は田沼意尊のこの一連の行動を「酸鼻な話」と批判しているが、これはまったくその通り。意尊はかつて賄賂政治をおこなって失脚した老中・田沼意次(おきつぐ)、そのせがれで不品行の末に江戸内で番士に斬られた若年寄・田沼意知(おきとも)の血筋だから、田沼家の悪名を雪(そそ)ごうとして過激な判断に及んだ可能性が高い。
ただし、当時このような見解は生まれず、慶喜は同郷の天狗党に救いの手を差しのべようとしなかった不人情な男だ、とする非難ばかりがひろく世におこなわれた。西郷吉之助(のちの隆盛)や大久保一蔵(いちぞう/のちの利通)が慶喜の非情を「幕府の非情」とみなして幕府を見限り、倒幕を決意したのもこの天狗党の処分を知ってのことだといえば、死せる天狗党が幕末史の流れに与えた影響の強さが知れよう。
お気に入りに登録