
日本の資本主義の礎を築いた渋沢栄一。2022年に日本最高額紙幣の“顔”となる「日本資本主義の父」がどのように生まれたかを、史実第一主義の直木賞作家・中村彰彦氏が紹介する。
日本の危機的状況から家臣団増強をはかることとなった一橋家に仕えることで、農民から武士へと階級を超えたキャリアアップを果たした渋沢栄一。その任は人を見る目を見込まれた「人事採用担当者」だった。いくつものハードルを越えねばならない、士分としての初仕事で、栄一が稼いだ「初任給」も公開。不安定な情勢が続く中、数々の難題が栄一を待っていた。(編集部)
日本の危機的状況から家臣団増強をはかることとなった一橋家に仕えることで、農民から武士へと階級を超えたキャリアアップを果たした渋沢栄一。その任は人を見る目を見込まれた「人事採用担当者」だった。いくつものハードルを越えねばならない、士分としての初仕事で、栄一が稼いだ「初任給」も公開。不安定な情勢が続く中、数々の難題が栄一を待っていた。(編集部)
次期将軍に持論の「人材登用術」をプレゼンする
一般にある組織体があらたに人材を採用する場合は、組織体側が一定の判断基準によって人材の器量を計る。ところがそれとは反対に、渋沢栄一の場合は一橋家に出仕するに際し、平岡円四郎に対して条件をふたつ提示した。
ひとつは、自分の差し出す「意見書」を一読してから採用してほしい、ということ。もうひとつは、君公(一橋慶喜)に拝謁(はいえつ)してから召し抱えてほしい、ということ。平岡に差し出された意見書は、下のような内容だったと栄一自身がのちに回想している。
「国家有事の時に方(あた)り、御三卿(ごさんきょう)の御身(おんみ)を以て京都の守衛総督に任ぜられ給いしは実に古今未曾有の御盛事ながら【略】、この御大任を全(まっと)うせらるるにはまた非常の御英断なくては相成らざる事、而(しこう)してその英断を希望するの第一着は人才(=人材)登用の道を開いて天下の人物を幕下に網羅し、各々(おのおの)その才に任ずるを急務とする、云々」(『雨夜譚』)
栄一は「居所がありませぬから御召抱(おめしかか)えを願いますというのは残念だから、一ト(ひと)理窟を付けて志願しようじゃないか」(同)と渋沢成一郎と相談してこの文面を書いたのだという。平岡がこの文面を見て「よろしい」といったので、こちらはこれでOKとなった。
栄一たちはその2日後には遠出する慶喜の乗馬を追いかけて内々の御目見(おめみえ)を許されたため、持論の人材登用論を述べたところ、慶喜が注意深く聞いてくれたように感じたので、ようやく一橋家に仕官することに踏ん切りがついた。
ひとつは、自分の差し出す「意見書」を一読してから採用してほしい、ということ。もうひとつは、君公(一橋慶喜)に拝謁(はいえつ)してから召し抱えてほしい、ということ。平岡に差し出された意見書は、下のような内容だったと栄一自身がのちに回想している。
「国家有事の時に方(あた)り、御三卿(ごさんきょう)の御身(おんみ)を以て京都の守衛総督に任ぜられ給いしは実に古今未曾有の御盛事ながら【略】、この御大任を全(まっと)うせらるるにはまた非常の御英断なくては相成らざる事、而(しこう)してその英断を希望するの第一着は人才(=人材)登用の道を開いて天下の人物を幕下に網羅し、各々(おのおの)その才に任ずるを急務とする、云々」(『雨夜譚』)
栄一は「居所がありませぬから御召抱(おめしかか)えを願いますというのは残念だから、一ト(ひと)理窟を付けて志願しようじゃないか」(同)と渋沢成一郎と相談してこの文面を書いたのだという。平岡がこの文面を見て「よろしい」といったので、こちらはこれでOKとなった。
栄一たちはその2日後には遠出する慶喜の乗馬を追いかけて内々の御目見(おめみえ)を許されたため、持論の人材登用論を述べたところ、慶喜が注意深く聞いてくれたように感じたので、ようやく一橋家に仕官することに踏ん切りがついた。
初めての仕事で新人いびりに遭う
初め東本願寺の内に置かれた一橋家の京都屋敷は、元治(げんじ)元年(1864)春には三条の若狭藩(小浜藩)京都藩邸に移ったので、栄一と成一郎も三条小橋の宿からこちらへ通う暮らしに入った。
最初に与えられた役目は「奥口番(おくぐちばん)」といい、御用談所(ごようだんしょ/諸藩にいう「留守居役所」)の番人であった。俸給は「4石(こく)2人扶持(ににんぶち)」で、京都滞在中は月々、「4両1分(いちぶ)」の手当がついた。
奥口番には同役の者がふたりいると教えられてその詰所(つめしょ)へ挨拶にゆくと、不潔な部屋に老人2名が詰めている。座って挨拶しようとするとひとりが栄一を咎(とが)め、そこは畳の目が上席の者より上座になるから座ってはならぬ、などという。馬鹿馬鹿しくはあったが、失礼しましたと詫びを入れ、その場で奥口に詰める役から「御用談所下役(したやく)」への出役(しゅつやく/出向)を命じられて御用談所の脇の一室へ成一郎とともに詰めることになった。
最初に与えられた役目は「奥口番(おくぐちばん)」といい、御用談所(ごようだんしょ/諸藩にいう「留守居役所」)の番人であった。俸給は「4石(こく)2人扶持(ににんぶち)」で、京都滞在中は月々、「4両1分(いちぶ)」の手当がついた。
奥口番には同役の者がふたりいると教えられてその詰所(つめしょ)へ挨拶にゆくと、不潔な部屋に老人2名が詰めている。座って挨拶しようとするとひとりが栄一を咎(とが)め、そこは畳の目が上席の者より上座になるから座ってはならぬ、などという。馬鹿馬鹿しくはあったが、失礼しましたと詫びを入れ、その場で奥口に詰める役から「御用談所下役(したやく)」への出役(しゅつやく/出向)を命じられて御用談所の脇の一室へ成一郎とともに詰めることになった。
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