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渋沢栄一の「士魂商才」 ビジネスリーダーなら知っておきたい「日本資本主義の父」の肖像

第6話:階級を超えたキャリアアップを果たす

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階級偏重の幕末日本の社会構造とは

幕末は、幕府の権威の失墜とともに「士農工商」という身分の枠が次第に崩れてきた時代であった。すでに名前の出た尊攘激派でいえば、清河八郎は庄内藩(しょうないはん)の酒造業者(郷士〈ごうし〉)のせがれ、吉村虎太郎は土佐の庄屋である。

また、水戸藩士・藤田東湖(とうこ)の父・幽谷(ゆうこく)は農民の出で、水戸に出て古着屋を営んでいた。東湖は早熟の秀才だったので15歳にして士分に採り立てられたものの、父の職業をさげすまれ、「古着屋のせがれ」と悪口をいわれたこともあった。

さらにいえば、やはり庄屋のせがれである近藤勇や土方歳三はすでに上京して会津藩お預かりの「新選組」に属していたが、その初代局長・芹沢鴨(せりざわ かも)も本名は木村継次(けいじ)といい、常陸国(ひたちのくに)行方郡(なめかたごおり)の豪農のせがれ。江戸の市中見廻りを担当する庄内藩お預かりの「新徴組(しんちょうぐみ)」には、甲州の元やくざ・祐天仙之助(ゆうてん せんのすけ)とその子分たちまで採用されていた。

そういう大状況があったことを考えあわせれば、平岡円四郎が渋沢栄一と成一郎に一橋家への出仕を勧めたのもさほど奇怪な発想ではなかったことになる。

出向社員の移籍先として成立した一橋慶喜の家臣団

さらには、小状況として一橋家の当時の立場についても少々分析しておく必要があろう。「徳川御三家」といえば尾張名古屋藩徳川家、紀州和歌山藩徳川家、常陸水戸藩徳川家のことで、初代藩主はいずれも家康の子供たちである。対して「徳川御三卿(ごさんきょう)」といえば田安家、一橋家、清水家のことで、これらは8代将軍・吉宗の時代以降に創設された御三家より格下の分家のこと。

田安家の初代は吉宗の次男・宗武(むねたけ)、一橋家初代はおなじく4男・宗尹(むねただ)、吉宗の死後創設された清水家の初代は、9代将軍家重(いえしげ/吉宗の長男)の次男・重好(しげよし)である。家格はいずれも10万石と御三家より低く押さえられているが、御三卿が創設された理由は徳川将軍家(本家)および御三家に次期将軍にふさわしい男子がいない場合、御三家に替わって本家に養子を入れることにあった。

11代将軍・家斉(いえなり)は、一橋家から10代・家治(いえはる)に養子入りして将軍職を相続した人物。御三卿は御三家と養子をやり取りすることもあり、平岡円四郎の仕える一橋家の当主・慶喜は、水戸藩主・徳川斉昭(なりあき/万延元年8月死亡)の7男として誕生、弘化4年(1847)に一橋家を相続したのであった。その一橋慶喜が新設の「将軍後見職」に就任していたことは前述したが、かれは元治元年(1864)3月中にこの役職を解かれ、「禁裏御守衛総督」と「摂海防禦(せっかいぼうぎょ)指揮」を命じられることになっていた。

「8月18日の政変」によって京を追われた長州藩尊攘激派が逆襲をこころみるかも知れないので、御所を守る公武合体派諸藩の兵たちを指揮する役職として置かれたのが「禁裏御守衛総督」。「馬関(ばかん)攘夷戦」という暴挙をおこなった長州藩に報復すべく横浜-摂海(大坂湾)-瀬戸内海を結ぶ航路に出没する欧米列強の軍艦が多くなったため、間違ってもそれらの軍艦が天皇に危害を加えないよう大坂湾を警備する者たちの指揮者として置かれたのが「摂海防禦指揮」である。

これらふたつの役職を兼ねることになった慶喜は、将軍後見職在任中よりも家臣団を増員する必要に迫られていた。しかるに田安、一橋、清水の御三卿の姓は江戸城田安門、一橋門、清水門のうちに屋敷があることにちなんだもので、幕府領から分与された領地から10万石の収入を受けるとはいえ、城地がないから10万石高の大名より家臣数ははるかに少ない。そこで一橋家は、公武合体派諸藩から藩士を少しずつわけてもらって員数を整える、という対策を凝らしていった。いわば同家は、諸藩士が「出向社員」として移籍する先でもあったから、平岡円四郎は家臣団をより充実させるべく栄一と成一郎にも仕官の声を掛けたのであろう。

テロリズム志向を脱して大政に関与する側へと人生を転換

いったん宿へもどってこの誘いを受けるかどうかを検討する段になると、渋沢栄一よりも剛情な成一郎は江戸へ帰って尾高長七郎たちを助け出さねば、と主張した。対して栄一は、そんなことができるはずはないし、我々が一橋家へ仕官すれば一時挙兵を計画していたことへの嫌疑も消え、長七郎たちを救い出す方便も生まれるという一挙両得の策になるかもしれない、と説いて成一郎に仕官を承諾させることに成功した。

こうして栄一と成一郎は尊攘激派から完全に離脱し、公武合体派のリーダーのひとりとして大政に関与している一橋慶喜の家士として生きることになったのであった。

なお、尾高長七郎が投獄されたのは旅の途中で精神を病み、人を斬ってしまったことによる。長七郎はのちに兄・新五郎の努力で出獄できたが、病癒えぬまま32歳で生涯を閉じた、と幸田露伴の『渋沢栄一伝』にある。

栄一に挙兵の無謀さを説いて目を醒まさせた者が、志を果たすことなく夭折してしまう。まことに「吉凶はあざなえる縄のごとし」である。


【編集部注】
※1 幕吏【ばくり】:幕府の役人のこと。
※2 用人【ようにん】:江戸時代の武家の職制のひとつ。主君の用向きを家中に伝達し、庶務を司る役目で、有能な人材が選抜されることが多かった。
※3 足下(ら)【そっか(ら)】:「あなたたち」や「貴殿ら」の意。同等か、それ以下の相手に対して用いる敬称。
※4  尊攘激派【そんじょうげきは】:幕末の水戸藩で展開された「尊王攘夷」運動のなかで、幕府の命令よりも勅命(天皇の命令)を重んじて行動した一部の派閥のこと。
※5 獄吏【ごくり】:監獄の役人。牢役人のこと。

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プロフィール

作家 中村 彰彦

作家 中村 彰彦

1949年栃木県生まれ。作家。東北大学文学部卒。在学中に「風船ガムの海」で第34回文學界新人賞佳作入選。卒業後1973~91年文藝春秋に編集者として勤務。1987年『明治新選組』で第10回エンタテインメント小説大賞を受賞。1991年より執筆活動に専念し、93年、『五左衛門坂の敵討』で第1回中山義秀文学賞を、94年、『二つの山河』で第111回(同年上半期)直木賞を、2005年に『落花は枝に還らずとも』で第24回新田次郎文学賞を、また2015年には第4回歴史時代作家クラブ賞実績功労賞を受賞する。近著に『幕末維新改メ』(晶文社)など。史実第一主義を貫く歴史作家。

ホームページ:中村彰彦公式サイト

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