第6話:階級を超えたキャリアアップを果たす

日本の資本主義の礎を築いた渋沢栄一。2022年に日本最高額紙幣の“顔”となる「日本資本主義の父」がどのように生まれたかを、史実第一主義の直木賞作家・中村彰彦氏が紹介する。
鎖国政策撤廃と不公平な通商条約締結、外国人上陸とコレラの大流行と尊攘激派の台頭など、内憂外患にさいなまれつづける幕末の日本。不安な国内情勢の中、渋沢栄一は、個人で名を挙げるよりも組織立った行動が必要と考え、人材を集めて攘夷の挙兵計画を立ててしまう。優れた教養による商才と組織力、行動力が裏目に出てテロリズム志向へと傾きかけた。しかし、従兄であり同志の長尾長七郎の説得によって、テロ計画を中断。だが、計画は役人の知るところとなり万事休すかと思われた時、偶然にも仕官の途が開けることに。幕末という激動の歴史背景を見渡しながら、のちの大企業家となる渋沢栄一の、機転が利き理論的な反面向こうっ気が強い性格と、運の強さがうかがえるエピソードを紹介する。(編集部)

農民から武士へ転身のチャンスにテロ容疑がかかる

渋沢栄一は名主の父(市郎右衛門)とは別々の人生を歩むことにしたため、農民なのか浪人なのかはっきりしない存在と化してしまった。しかも挙兵計画を立てて武器を買い集めていたことは、すでに関八州取締など幕吏(ばくり※1)の耳に入っているかもしれない。そう考えてしばらく身を隠すことにした栄一は、渋沢成一郎(従兄)とともに文久3年(1863)11月8日に血洗島村(ちあらいじまむら)を出立。江戸へ出府してから、14日には東海道に道を取って京をめざした。

なぜ栄一たちが京にゆく気になったかというと、「将軍後見職」として京に赴任中の一橋慶喜(ひとつばし よしのぶ)が幕臣出身の平岡円四郎を一橋家用人(※2)に登用しており、栄一たちはその平岡と交流があったためである。互いに知り合ったのは栄一や成一郎が江戸に留学して文武修業に励んでいた頃で、平岡はふたりにこう提案したこともあった。

「(足下〈そっか※3〉らには)実に国家のために尽くすという精神が見えるが、残念な事には身分が農民では仕方ない、幸(さいわい)に一橋家には仕官の途(みち)もあろうと思うし、また拙者も心配してやろうから直(ただち)に仕官してはどうだ」(『雨夜譚〈あまよがたり〉』)

その頃の栄一たちはいずれ尊攘激派(※4)の志士として立つつもりでいたので、この話には飛びつかなかった。しかし、今回、浪人として京にむかうとすると、旅の途中で幕吏に行動を怪しまれる恐れがある。そこでふたりはまだ江戸にいるうちに平岡の留守宅を訪ね、妻女にこれまでの事情を伝えてから申し入れた。

「京都へゆくために当家の御家来のつもりにして先触(さきぶれ)を出すからこの事を許可して下さい」(同)

ここにいう「先触れ」とは、大名旗本の家臣などが旅に出る時、先々の宿場へ人馬の継ぎ立てや宿の手配を依頼しておく文書のこと。ふたりはちゃっかりと、平岡家の家臣を装えば無事に旅をつづけられると踏んだのである。すると妻女は、僥倖(ぎょうこう)にもこう応じてくれた。「かねて円四郎の申付(もうしつけ)には乃公(おれ)が留守に両人(栄一と成一郎)が来て家来にしてもらいたいといったら許してもよいということであったから、その儀ならば差支(さしつか)えない、承知した」(同)

このやりとりによってふたりは「平岡家家臣」と称することを許され、11月25日に無事着京することができた。平岡円四郎を訪ね、挨拶したのはいうまでもない。以後ふたりは、栄一が父からもらった100両を小出しにしながら名所旧蹟を見物してまわった。

ところが、あけて文久4年(1864)が「元治(げんじ)」と改元される直前の2月初旬のこと。故郷で剣を教えているはずの尾高長七郎(栄一の従兄)から届いた手紙を見ると、なんとそれは江戸の伝馬町(てんまちょう)の牢獄から出されていた。どのような事情かはわからなかったが、長七郎は中村三平ほかと江戸へ出る途中に捕縛され、栄一が着京後に出した手紙も取り上げられてしまったのだという。

栄一はその長七郎宛の手紙で、「かねて見込んだ通り幕府は攘夷鎖港の談判のために潰(つぶ)れるに違いない、我々が国家のために力を尽くすのはこの秋(とき)であるから、それには京都へ来て居る方が好かろう」(同)と、まだ尊攘激派の尻尾を引きずったことを申し入れていた。獄吏(ごくり※5)にそのことを知られたということは、いつ幕吏に踏みこまれるか知れたものではない、ということでもある。

階級を超えたキャリアアップのチャンスをつかむ

渋沢栄一と成一郎が眠れぬ夜を明かすと、平岡円四郎が手紙ですぐに来いと伝えてきた。これは幕府から一橋家にふたりの来歴について問い合わせがあり、平岡が尋問役に指名されたのである。栄一は平岡に恩義を感じていたためだろう、会うと正直に挙兵計画を立てたことを告白し、

「足下らはマサカに人を殺して人の財物を取ったことはあるまいが、もしあったならあったといってくれ」(『雨夜譚』)、「イヤそれは決してござりませぬ、なるほど殺そうと思ったことはたびたびござりました」(同)、などというやりとりをした。

ふたりは実際に「第2の天誅組の変」を起こしたわけではないから、これにて尋問終了である。とはいえ、1度は生死をともにしようとした長七郎らが捕縛されては今さら帰郷もできないし、進退きわまるとはこのことである。その思いを伝えると、平岡は驚くべき提案をした。

「なるほどそうであろう、察し入る。ついてはこのさい足下らは志を変じ節を屈して、一橋の家来になってはどうだ。【略】かくいう拙者も小身(しょうしん)ながら幕府の人、近頃一橋家へ付けられたような訳であるから、人を抱えるの、浪士を雇うということはずいぶんむつかしい話だけれども、もし足下らが当家へ仕官しようと思うならば、平生の志が面白いから拙者は十分に心配して見ようと思うがどうだ」(同)

農民出の浪人として明日をも知れない身の上のふたりに、にわかに一橋家家臣という「士分」に登用される途が提示されたのである。……と解説するだけでは、「武士ってそんなに簡単になれるものなんですか?」という声が聞こえてきそうなので、もう少し詳しく述べよう。

階級偏重の幕末日本の社会構造とは

幕末は、幕府の権威の失墜とともに「士農工商」という身分の枠が次第に崩れてきた時代であった。すでに名前の出た尊攘激派でいえば、清河八郎は庄内藩(しょうないはん)の酒造業者(郷士〈ごうし〉)のせがれ、吉村虎太郎は土佐の庄屋である。

また、水戸藩士・藤田東湖(とうこ)の父・幽谷(ゆうこく)は農民の出で、水戸に出て古着屋を営んでいた。東湖は早熟の秀才だったので15歳にして士分に採り立てられたものの、父の職業をさげすまれ、「古着屋のせがれ」と悪口をいわれたこともあった。

さらにいえば、やはり庄屋のせがれである近藤勇や土方歳三はすでに上京して会津藩お預かりの「新選組」に属していたが、その初代局長・芹沢鴨(せりざわ かも)も本名は木村継次(けいじ)といい、常陸国(ひたちのくに)行方郡(なめかたごおり)の豪農のせがれ。江戸の市中見廻りを担当する庄内藩お預かりの「新徴組(しんちょうぐみ)」には、甲州の元やくざ・祐天仙之助(ゆうてん せんのすけ)とその子分たちまで採用されていた。

そういう大状況があったことを考えあわせれば、平岡円四郎が渋沢栄一と成一郎に一橋家への出仕を勧めたのもさほど奇怪な発想ではなかったことになる。

出向社員の移籍先として成立した一橋慶喜の家臣団

さらには、小状況として一橋家の当時の立場についても少々分析しておく必要があろう。「徳川御三家」といえば尾張名古屋藩徳川家、紀州和歌山藩徳川家、常陸水戸藩徳川家のことで、初代藩主はいずれも家康の子供たちである。対して「徳川御三卿(ごさんきょう)」といえば田安家、一橋家、清水家のことで、これらは8代将軍・吉宗の時代以降に創設された御三家より格下の分家のこと。

田安家の初代は吉宗の次男・宗武(むねたけ)、一橋家初代はおなじく4男・宗尹(むねただ)、吉宗の死後創設された清水家の初代は、9代将軍家重(いえしげ/吉宗の長男)の次男・重好(しげよし)である。家格はいずれも10万石と御三家より低く押さえられているが、御三卿が創設された理由は徳川将軍家(本家)および御三家に次期将軍にふさわしい男子がいない場合、御三家に替わって本家に養子を入れることにあった。

11代将軍・家斉(いえなり)は、一橋家から10代・家治(いえはる)に養子入りして将軍職を相続した人物。御三卿は御三家と養子をやり取りすることもあり、平岡円四郎の仕える一橋家の当主・慶喜は、水戸藩主・徳川斉昭(なりあき/万延元年8月死亡)の7男として誕生、弘化4年(1847)に一橋家を相続したのであった。その一橋慶喜が新設の「将軍後見職」に就任していたことは前述したが、かれは元治元年(1864)3月中にこの役職を解かれ、「禁裏御守衛総督」と「摂海防禦(せっかいぼうぎょ)指揮」を命じられることになっていた。

「8月18日の政変」によって京を追われた長州藩尊攘激派が逆襲をこころみるかも知れないので、御所を守る公武合体派諸藩の兵たちを指揮する役職として置かれたのが「禁裏御守衛総督」。「馬関(ばかん)攘夷戦」という暴挙をおこなった長州藩に報復すべく横浜-摂海(大坂湾)-瀬戸内海を結ぶ航路に出没する欧米列強の軍艦が多くなったため、間違ってもそれらの軍艦が天皇に危害を加えないよう大坂湾を警備する者たちの指揮者として置かれたのが「摂海防禦指揮」である。

これらふたつの役職を兼ねることになった慶喜は、将軍後見職在任中よりも家臣団を増員する必要に迫られていた。しかるに田安、一橋、清水の御三卿の姓は江戸城田安門、一橋門、清水門のうちに屋敷があることにちなんだもので、幕府領から分与された領地から10万石の収入を受けるとはいえ、城地がないから10万石高の大名より家臣数ははるかに少ない。そこで一橋家は、公武合体派諸藩から藩士を少しずつわけてもらって員数を整える、という対策を凝らしていった。いわば同家は、諸藩士が「出向社員」として移籍する先でもあったから、平岡円四郎は家臣団をより充実させるべく栄一と成一郎にも仕官の声を掛けたのであろう。

テロリズム志向を脱して大政に関与する側へと人生を転換

いったん宿へもどってこの誘いを受けるかどうかを検討する段になると、渋沢栄一よりも剛情な成一郎は江戸へ帰って尾高長七郎たちを助け出さねば、と主張した。対して栄一は、そんなことができるはずはないし、我々が一橋家へ仕官すれば一時挙兵を計画していたことへの嫌疑も消え、長七郎たちを救い出す方便も生まれるという一挙両得の策になるかもしれない、と説いて成一郎に仕官を承諾させることに成功した。

こうして栄一と成一郎は尊攘激派から完全に離脱し、公武合体派のリーダーのひとりとして大政に関与している一橋慶喜の家士として生きることになったのであった。

なお、尾高長七郎が投獄されたのは旅の途中で精神を病み、人を斬ってしまったことによる。長七郎はのちに兄・新五郎の努力で出獄できたが、病癒えぬまま32歳で生涯を閉じた、と幸田露伴の『渋沢栄一伝』にある。

栄一に挙兵の無謀さを説いて目を醒まさせた者が、志を果たすことなく夭折してしまう。まことに「吉凶はあざなえる縄のごとし」である。


【編集部注】
※1 幕吏【ばくり】:幕府の役人のこと。
※2 用人【ようにん】:江戸時代の武家の職制のひとつ。主君の用向きを家中に伝達し、庶務を司る役目で、有能な人材が選抜されることが多かった。
※3 足下(ら)【そっか(ら)】:「あなたたち」や「貴殿ら」の意。同等か、それ以下の相手に対して用いる敬称。
※4  尊攘激派【そんじょうげきは】:幕末の水戸藩で展開された「尊王攘夷」運動のなかで、幕府の命令よりも勅命(天皇の命令)を重んじて行動した一部の派閥のこと。
※5 獄吏【ごくり】:監獄の役人。牢役人のこと。