
日本の資本主義の礎を築いた渋沢栄一。2022年に日本最高額紙幣の“顔”となる「日本資本主義の父」がどのように生まれたかを、史実第一主義の直木賞作家・中村彰彦氏が紹介する。
鎖国政策撤廃と不公平な通商条約締結、外国人上陸とコレラの大流行と尊攘激派の台頭など、内憂外患にさいなまれつづける幕末の日本。不安な国内情勢の中、渋沢栄一は、個人で名を挙げるよりも組織立った行動が必要と考え、人材を集めて攘夷の挙兵計画を立ててしまう。優れた教養による商才と組織力、行動力が裏目に出てテロリズム志向へと傾きかけた。しかし、従兄であり同志の長尾長七郎の説得によって、テロ計画を中断。だが、計画は役人の知るところとなり万事休すかと思われた時、偶然にも仕官の途が開けることに。幕末という激動の歴史背景を見渡しながら、のちの大企業家となる栄一の、機転が利き理論的な反面向こうっ気が強い性格と、運の強さがうかがえるエピソードを紹介する。(編集部)
鎖国政策撤廃と不公平な通商条約締結、外国人上陸とコレラの大流行と尊攘激派の台頭など、内憂外患にさいなまれつづける幕末の日本。不安な国内情勢の中、渋沢栄一は、個人で名を挙げるよりも組織立った行動が必要と考え、人材を集めて攘夷の挙兵計画を立ててしまう。優れた教養による商才と組織力、行動力が裏目に出てテロリズム志向へと傾きかけた。しかし、従兄であり同志の長尾長七郎の説得によって、テロ計画を中断。だが、計画は役人の知るところとなり万事休すかと思われた時、偶然にも仕官の途が開けることに。幕末という激動の歴史背景を見渡しながら、のちの大企業家となる栄一の、機転が利き理論的な反面向こうっ気が強い性格と、運の強さがうかがえるエピソードを紹介する。(編集部)
農民から武士へ転身のチャンスにテロ容疑がかかる
渋沢栄一は名主の父(市郎右衛門)とは別々の人生を歩むことにしたため、農民なのか浪人なのかはっきりしない存在と化してしまった。しかも挙兵計画を立てて武器を買い集めていたことは、すでに関八州取締など幕吏(ばくり※1)の耳に入っているかもしれない。そう考えてしばらく身を隠すことにした栄一は、渋沢成一郎(従兄)とともに文久3年(1863)11月8日に血洗島村(ちあらいじまむら)を出立。江戸へ出府してから、14日には東海道に道を取って京をめざした。
なぜ栄一たちが京にゆく気になったかというと、「将軍後見職」として京に赴任中の一橋慶喜(ひとつばし よしのぶ)が幕臣出身の平岡円四郎を一橋家用人(※2)に登用しており、栄一たちはその平岡と交流があったためである。互いに知り合ったのは栄一や成一郎が江戸に留学して文武修業に励んでいた頃で、平岡はふたりにこう提案したこともあった。
「(足下〈そっか※3〉らには)実に国家のために尽くすという精神が見えるが、残念な事には身分が農民では仕方ない、幸(さいわい)に一橋家には仕官の途(みち)もあろうと思うし、また拙者も心配してやろうから直(ただち)に仕官してはどうだ」(『雨夜譚〈あまよがたり〉』)
その頃の栄一たちはいずれ尊攘激派(※4)の志士として立つつもりでいたので、この話には飛びつかなかった。しかし、今回、浪人として京にむかうとすると、旅の途中で幕吏に行動を怪しまれる恐れがある。そこでふたりはまだ江戸にいるうちに平岡の留守宅を訪ね、妻女にこれまでの事情を伝えてから申し入れた。
「京都へゆくために当家の御家来のつもりにして先触(さきぶれ)を出すからこの事を許可して下さい」(同)
ここにいう「先触れ」とは、大名旗本の家臣などが旅に出る時、先々の宿場へ人馬の継ぎ立てや宿の手配を依頼しておく文書のこと。ふたりはちゃっかりと、平岡家の家臣を装えば無事に旅をつづけられると踏んだのである。すると妻女は、僥倖(ぎょうこう)にもこう応じてくれた。「かねて円四郎の申付(もうしつけ)には乃公(おれ)が留守に両人(栄一と成一郎)が来て家来にしてもらいたいといったら許してもよいということであったから、その儀ならば差支(さしつか)えない、承知した」(同)
このやりとりによってふたりは「平岡家家臣」と称することを許され、11月25日に無事着京することができた。平岡円四郎を訪ね、挨拶したのはいうまでもない。以後ふたりは、栄一が父からもらった100両を小出しにしながら名所旧蹟を見物してまわった。
ところが、あけて文久4年(1864)が「元治(げんじ)」と改元される直前の2月初旬のこと。故郷で剣を教えているはずの尾高長七郎(栄一の従兄)から届いた手紙を見ると、なんとそれは江戸の伝馬町(てんまちょう)の牢獄から出されていた。どのような事情かはわからなかったが、長七郎は中村三平ほかと江戸へ出る途中に捕縛され、栄一が着京後に出した手紙も取り上げられてしまったのだという。
栄一はその長七郎宛の手紙で、「かねて見込んだ通り幕府は攘夷鎖港の談判のために潰(つぶ)れるに違いない、我々が国家のために力を尽くすのはこの秋(とき)であるから、それには京都へ来て居る方が好かろう」(同)と、まだ尊攘激派の尻尾を引きずったことを申し入れていた。獄吏(ごくり※5)にそのことを知られたということは、いつ幕吏に踏みこまれるか知れたものではない、ということでもある。
なぜ栄一たちが京にゆく気になったかというと、「将軍後見職」として京に赴任中の一橋慶喜(ひとつばし よしのぶ)が幕臣出身の平岡円四郎を一橋家用人(※2)に登用しており、栄一たちはその平岡と交流があったためである。互いに知り合ったのは栄一や成一郎が江戸に留学して文武修業に励んでいた頃で、平岡はふたりにこう提案したこともあった。
「(足下〈そっか※3〉らには)実に国家のために尽くすという精神が見えるが、残念な事には身分が農民では仕方ない、幸(さいわい)に一橋家には仕官の途(みち)もあろうと思うし、また拙者も心配してやろうから直(ただち)に仕官してはどうだ」(『雨夜譚〈あまよがたり〉』)
その頃の栄一たちはいずれ尊攘激派(※4)の志士として立つつもりでいたので、この話には飛びつかなかった。しかし、今回、浪人として京にむかうとすると、旅の途中で幕吏に行動を怪しまれる恐れがある。そこでふたりはまだ江戸にいるうちに平岡の留守宅を訪ね、妻女にこれまでの事情を伝えてから申し入れた。
「京都へゆくために当家の御家来のつもりにして先触(さきぶれ)を出すからこの事を許可して下さい」(同)
ここにいう「先触れ」とは、大名旗本の家臣などが旅に出る時、先々の宿場へ人馬の継ぎ立てや宿の手配を依頼しておく文書のこと。ふたりはちゃっかりと、平岡家の家臣を装えば無事に旅をつづけられると踏んだのである。すると妻女は、僥倖(ぎょうこう)にもこう応じてくれた。「かねて円四郎の申付(もうしつけ)には乃公(おれ)が留守に両人(栄一と成一郎)が来て家来にしてもらいたいといったら許してもよいということであったから、その儀ならば差支(さしつか)えない、承知した」(同)
このやりとりによってふたりは「平岡家家臣」と称することを許され、11月25日に無事着京することができた。平岡円四郎を訪ね、挨拶したのはいうまでもない。以後ふたりは、栄一が父からもらった100両を小出しにしながら名所旧蹟を見物してまわった。
ところが、あけて文久4年(1864)が「元治(げんじ)」と改元される直前の2月初旬のこと。故郷で剣を教えているはずの尾高長七郎(栄一の従兄)から届いた手紙を見ると、なんとそれは江戸の伝馬町(てんまちょう)の牢獄から出されていた。どのような事情かはわからなかったが、長七郎は中村三平ほかと江戸へ出る途中に捕縛され、栄一が着京後に出した手紙も取り上げられてしまったのだという。
栄一はその長七郎宛の手紙で、「かねて見込んだ通り幕府は攘夷鎖港の談判のために潰(つぶ)れるに違いない、我々が国家のために力を尽くすのはこの秋(とき)であるから、それには京都へ来て居る方が好かろう」(同)と、まだ尊攘激派の尻尾を引きずったことを申し入れていた。獄吏(ごくり※5)にそのことを知られたということは、いつ幕吏に踏みこまれるか知れたものではない、ということでもある。
階級を超えたキャリアアップのチャンスをつかむ
渋沢栄一と成一郎が眠れぬ夜を明かすと、平岡円四郎が手紙ですぐに来いと伝えてきた。これは幕府から一橋家にふたりの来歴について問い合わせがあり、平岡が尋問役に指名されたのである。栄一は平岡に恩義を感じていたためだろう、会うと正直に挙兵計画を立てたことを告白し、
「足下らはマサカに人を殺して人の財物を取ったことはあるまいが、もしあったならあったといってくれ」(『雨夜譚』)、「イヤそれは決してござりませぬ、なるほど殺そうと思ったことはたびたびござりました」(同)、などというやりとりをした。
ふたりは実際に「第2の天誅組の変」を起こしたわけではないから、これにて尋問終了である。とはいえ、1度は生死をともにしようとした長七郎らが捕縛されては今さら帰郷もできないし、進退きわまるとはこのことである。その思いを伝えると、平岡は驚くべき提案をした。
「なるほどそうであろう、察し入る。ついてはこのさい足下らは志を変じ節を屈して、一橋の家来になってはどうだ。【略】かくいう拙者も小身(しょうしん)ながら幕府の人、近頃一橋家へ付けられたような訳であるから、人を抱えるの、浪士を雇うということはずいぶんむつかしい話だけれども、もし足下らが当家へ仕官しようと思うならば、平生の志が面白いから拙者は十分に心配して見ようと思うがどうだ」(同)
農民出の浪人として明日をも知れない身の上のふたりに、にわかに一橋家家臣という「士分」に登用される途が提示されたのである。……と解説するだけでは、「武士ってそんなに簡単になれるものなんですか?」という声が聞こえてきそうなので、もう少し詳しく述べよう。
「足下らはマサカに人を殺して人の財物を取ったことはあるまいが、もしあったならあったといってくれ」(『雨夜譚』)、「イヤそれは決してござりませぬ、なるほど殺そうと思ったことはたびたびござりました」(同)、などというやりとりをした。
ふたりは実際に「第2の天誅組の変」を起こしたわけではないから、これにて尋問終了である。とはいえ、1度は生死をともにしようとした長七郎らが捕縛されては今さら帰郷もできないし、進退きわまるとはこのことである。その思いを伝えると、平岡は驚くべき提案をした。
「なるほどそうであろう、察し入る。ついてはこのさい足下らは志を変じ節を屈して、一橋の家来になってはどうだ。【略】かくいう拙者も小身(しょうしん)ながら幕府の人、近頃一橋家へ付けられたような訳であるから、人を抱えるの、浪士を雇うということはずいぶんむつかしい話だけれども、もし足下らが当家へ仕官しようと思うならば、平生の志が面白いから拙者は十分に心配して見ようと思うがどうだ」(同)
農民出の浪人として明日をも知れない身の上のふたりに、にわかに一橋家家臣という「士分」に登用される途が提示されたのである。……と解説するだけでは、「武士ってそんなに簡単になれるものなんですか?」という声が聞こえてきそうなので、もう少し詳しく述べよう。
お気に入りに登録