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渋沢栄一の「士魂商才」 ビジネスリーダーなら知っておきたい「日本資本主義の父」の肖像

第3話:疫病流行で揺れる日本と渋沢栄一の学問の師

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日本の資本主義の礎を築いた渋沢栄一。2022年に日本最高額紙幣の“顔”となる「日本資本主義の父」がどのように生まれたかを、史実第一主義の直木賞作家・中村彰彦氏が紹介する。

鎖国政策撤廃という歴史の大転換迎えた日本に外国人たちが渡来しはじめた。彼らが持ちこんだコレラウイルスによって、この国に未曾有の疫病大流行が巻き起こってしまう。劇的な大転換を迫られた政治不安と求心力を失った幕府への不満、さらに加わった疫病禍によって人心は乱れ、日本全土が不穏な雲行きに包まれる。その様相は、コロナ禍に見舞われている現代日本と変わりない。非常時下の人々は外国人排斥と現政権を倒そうとする「尊王攘夷論」に傾倒し、排他的な世の中へと進む中、渋沢栄一は新思潮をどのように吸収し、学問と思想の危機をうまくかわしていったのか。歴史上の事件下敷きに、栄一の身に起こった出来事と政治を志すにいたった経緯を紐解いていく。(編集部)

流行思想「尊王攘夷」を教えた恩師は従兄・尾高新五郎

渋沢栄一の学問の師・尾高新五郎惇忠(あつただ)については、「七、八町離れた手許村(てばかむら)」に住む「十歳年上の従兄」とだけ第1話に書いておいた。ここでもう少しそのプロフィルを深彫りすると、新五郎の父・尾高勝五郎は手許村の名主(なぬし)、その妻・おやへは渋沢宗助の長女であったから、尾高勝五郎おやへ夫婦の間に生まれた新五郎と栄一とは従兄弟同士となったのである。新五郎の人となりについては幸田露伴『渋沢栄一伝』に詳しいので、次にその一部を引いておこう。

「新五郎は心身共に優秀な児であつたから、自然と村の群児(ぐんじ)の雄(ゆう)として育つた。四書の素読は村夫子(そんふうし)に、習字は叔父に受けた後、やゝ進んでは村へ游歴して来た菊池菊城といふ人に漢学を授かり、剣道は夙(はや)く十歳から川越侯の師範役大川平兵衛に就(つ)いて学んだ。【略】野史雑書等は新五郎の読耽るところのもの・・・・・・・・・・・・・・・・・・・であり、当時の権力分有者たる人々の身分や禄高を列記した武鑑(ぶかん)は新五郎の常々の玩物であり、又如何(いか)なる人物からも其(その)談話中より知識を吸収するのであり、感情を開発するのであつた」(傍点筆者)

第1話では、渋沢栄一少年が11、2歳の頃から『通俗三国志』、『里見八犬伝』、『俊寛島物語』といった通俗読物も読んだことを紹介しておいた。上の傍点部から、このような読書傾向も新五郎が栄一に与えた影響のひとつであったことがうかがえる。では、新五郎の思想はどのようなものだったのか。露伴はいう。

「天明以来外国の船が我邦(わがくに)に来始めて、文政・天保と露西亜(ロシア)・英吉利(イギリス)のもの等が我が安眠を驚かすに及び、水戸の景山公(けいざんこう/藩主・徳川斉昭〈なりあき〉)が、天保十二年水戸城外の千波が原で追鳥狩(おいとりかり)の名を以(もっ)て擬戦演武の挙を行ふに際して、祖父に伴はれて見物した時は僅(わずか)に十二歳の童稚(どうち)であつたにかゝはらず、大(おおい)に感激して、一生之(これ)を銘記して忘れなかつたといふほどの新五郎は、十四十五といふ頃には既に凡(ぼん)ならぬものとなつて居た」

異国船が国境未画定地域や日本領にあらわれ、日本人を驚かせた例としては、次のような事件を挙げることができる。

・文化3年(1806)9月、ロシア宮廷侍従長兼ロシア領アメリカ会社総支配人・レザーノフ配下の海軍士官・フウォストフとダヴィドフ、唐太島(からふとじま/現サハリン)の久春古丹(クシュンコタン/のちの大泊<おおどまり>)にあった松前藩の会所を襲撃し、物資を略奪。
・文政7年(1824)5月、イギリス捕鯨船員、薪水を求めて水戸藩領の常陸(ひたち)大津浜に上陸し、水戸藩に捕らえられる。8月、イギリス捕鯨船員、薩摩藩領の宝島に上陸して略奪を働く。
・天保7年(1836)7月、ロシア船、日本人漂流民を護送してエトロフ島に来航。

「天保の大飢饉」や幕権の弱体化を「内憂」とすれば、これら異国船の出没は、長く鎖国策を採ってきた日本にとっては「外患」にほかならない。「追鳥狩」とは全藩挙げての模擬戦のことで、これを初めておこなったのは会津藩。時に寛政3年(1791)3月16日のことであったが、実戦さながらのこの野外操練が「外患」に悩む諸藩の注目することころとなった結果、水戸藩も追鳥狩をおこなうようになったのだ。

ちなみに、水戸藩主・徳川斉昭は天保12年7月、水戸城三の丸に藩校・弘道館を開設したが、その設立の趣意を述べた藤田東湖(とうこ)『弘道館記述義』には「国体、これを以て尊厳」、「尊王攘夷」、「神州」といった後世の国粋主義者の喜びそうな表現が頻出し、いわゆる「水戸学」の主張する尊王攘夷論がきわめて排他的思想であることが知れる。水戸藩の追鳥狩を見物して「大に感激」した尾高新五郎は、14、5歳の頃には尊王攘夷論に傾倒していたのである。

ただし、その尊王攘夷論はまだ心情的なものにすぎない。栄一19歳と新五郎29歳が安政5年(1858)、そろって信州へ藍の葉を買いに行ったときの出立ちは書生風の旅姿。新五郎は藍香(らんこう)、栄一は青淵(せいえん)という号を持っており、旅の途中に詩文を作っては互いに批評し合う親しさであった。

新五郎の藍香という号が藍に由来することは一目でわかるが、青淵とはどういう意味か。栄一の渋沢家の裏の方に沼があり、そのあたりの地名は淵上(ふちがみ)といった。栄一はその淵から青淵という号を考えたのだが、栄一は成功し名を遂げてからもこの号を用い、『青淵百話』、『青淵実業講話』など、著作のタイトルにも使用しているところを見ると、よほどこの号が気に入っていたのだろう。

さて、この安政5年とは6月19日に「日米修好通商条約」が調印され、ついでオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同様の条約――いわゆる「安政五ヵ国条約」が結ばれた年である。藍香、青淵と呼び合ったふたりがまだ時代の荒波を感じることなく旅に題材を得た詩文などを作っているうちに、渋沢市郎右衛門と尾高勝五郎の間ではある相談がまとまりつつあった。

その相談とは、栄一と勝五郎の3女で18歳になった千代を結婚させてはどうか、というもの。戦国時代から江戸時代まで日本は早婚の風習をもって良しとしており、女は13歳で初潮を迎えれば嫁にゆける、男は13歳で精通を見れば妻を迎えられる、とされていた。この感覚からすれば、栄一と千代の組み合わせには何の問題もない。この時代には従兄と従妹の結婚は「重縁」といって喜ばれたものでもあるから話はすんなりまとまり、栄一と新五郎が信州から10月末に帰ってくると、12月初めにはもう千代が渋沢家へ嫁いできた。

尾高家が衰運におもむきつつあるのに対し、渋沢家は市郎右衛門・栄一父子の商才によって大いに栄えていたから、栄一はいずれは裕福な名主となって一生を終えてもよかった。しかし栄一には、前回(第2回)見たように何としても武士になり、時代の流れに棹さしてみたいという夢があった。栄一が実際、その夢の実現に向けて動き出すのは文久元年(1861)22歳のときのことなので、ここで安政五ヵ国条約が締結されて以降の日本の政情を押さえておこう。

未曾有の疫病大流行のさなか、日本全土に排他的思想が広がる

嘉永7年(1854)3月3日に「日米和親条約」が結ばれ、下田・箱館の2港が開港されて鎖国がおわってからしばらくの間、攘夷論もまだ素朴なしろもので、ある瓦版は次のように説いていた。

――異人たちが踵(かかと)に台のある靴をはいているのは、両足に踵がなくて足首から下がアシカのヒレのようになっているからだ。だから攘夷などは簡単なことだ。異人に体当たりして突き倒し、靴を脱がせてしまえばその辺をはいまわることしかできない。

しかし、「日米修好通商条約」締結直前の安政5年5月以降、こんな落語のような話はしていられなくなった。5月に長崎の出島でコレラが発生すると、6月下旬には東海道を伝って江戸に到達。7月末には芝の海辺、鉄砲洲、佃島(つくだじま)、霊巌島(れいがんじま)と汚染地がひろがり、9月末までの2ヵ月間の死者は2万8,000余人に達したのだ(斉藤月岑<げっしん>『武江<ぶこう>年表』)。

上の通商条約は孝明天皇の勅許を得ることなく調印されたものであったから、天皇は激怒。全国の尊王攘夷派も幕府を批判的に見つめていたが、このコレラの大流行は尊王攘夷派の一部を過激化させ、いわゆる尊攘激派を生み出すに至った。コレラを異人たちの持ちこんだ疫病と見抜いた尊攘激派は、まだコレラの流行のおさまらなかった翌安政6年(1859)7月27日、あらたに開港地とされたばかりの横浜で買物をしていたロシア海軍見習士官・モヘトと水兵を襲撃し、両人を即死させた(オールコック『大君の都』)。これが尊王攘夷を名目とする異人斬りのはじまりであり、ここから「暗殺」という日本語の生まれる原因となった凶行の相次ぐ時代が幕を開けた。

同年10月11日、フランス領事館雇いの洋装の清国人、斬殺される。
安政7年(1860)1月7日、イギリス総領事雇いの伝吉、刺殺される。
2月5日、オランダ人船長・フォスとデッケル、滅多斬りにされる。

同年3月3日には水戸と薩摩の尊攘激派が「桜田門外の変」を起こし、大老・井伊直弼(なおすけ)の襲殺に成功。18日は「万延」と改元されたが、同年12月5日夜にはアメリカ公使館の通弁官・ヒュースケンが庄内藩郷士・清河八郎、薩摩藩士・伊牟田尚平(いむた しょうへい)らの尊攘激派に斬殺された。

そこで栄一と尊王攘夷思想とのかかわりを見ると、かれは尾高新五郎が水戸の学風を良しとし、藤田東湖、会沢正志斎ら水戸の大物思想家の著作に親しんでいたことに影響されて尊王攘夷論にすっかりかぶれていた。その新五郎につづいて栄一に影響を与えたのは、栄一より2歳年上、新五郎を兄として生まれた尾高長七郎であった。長七郎は堂々たる体躯の持ち主で少年の頃から抜群の剣の技量を見せたため、兄・新五郎に勧められて江戸に出、伊庭軍兵衛(いば ぐんべえ)に入門して心形刀流(しんぎょうとうりゅう)の剣を修める一方、ひろく尊王攘夷派の志士たちと交わっていた。

その長七郎は時に帰国すると血洗島村(ちあらいじまむら)と手許村との間、鹿島神社のかたわらの道場で人々に剣を教えた。栄一の伯父の渋沢長兵衛、渋沢宗助の息子でいずれ別家を立てる成一郎(のち、喜作と改名)などは長七郎に入門したほどだから、栄一もこれには相当刺激を受けたようだ。するとそのうち成一郎が長七郎を真似て江戸へ文武修業に出掛けたので、栄一は先を越された形になった。

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プロフィール

作家 中村 彰彦

作家 中村 彰彦

1949年栃木県生まれ。作家。東北大学文学部卒。在学中に「風船ガムの海」で第34回文學界新人賞佳作入選。卒業後1973~91年文藝春秋に編集者として勤務。1987年『明治新選組』で第10回エンタテインメント小説大賞を受賞。1991年より執筆活動に専念し、93年、『五左衛門坂の敵討』で第1回中山義秀文学賞を、94年、『二つの山河』で第111回(同年上半期)直木賞を、2005年に『落花は枝に還らずとも』で第24回新田次郎文学賞を、また2015年には第4回歴史時代作家クラブ賞実績功労賞を受賞する。近著に『幕末維新改メ』(晶文社)など。史実第一主義を貫く歴史作家。

ホームページ:中村彰彦公式サイト

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