
日本の資本主義の礎を築き、「日本資本主義の父」として称えられる渋沢栄一。現代において「経営の神様」と呼ばれるピーター・ドラッガーも、名著『マネジメント』の序文で、渋沢について触れ、讃えている。その類稀な経営手腕と人生哲学は、今なお経営者の見本となっているのだ。しかし、その商才が幼いころから培われ、近世・幕末(明治維新)という激動の時代を生きたからこそ身についたものであることは、あまり知られていない。2022年に日本最高額紙幣の“顔”となる前に、「日本資本主義の父」がどのように生まれたかを、史実第一主義の直木賞作家・中村彰彦氏が紹介する。(編集部)
渋沢栄一の審美眼を育てた渋沢一族の英才教育
江戸時代の武士の家に生まれた者は、「男女七歳にして席をおなじうせず」の教えに従い、少年少女がまったく別の勉強をはじめた。少年は「子(し)、曰(のたまわ)く」と漢籍の素読から出発し、習字も漢字の書き方を学ぶ。対して少女は平仮名の読み書きから稽古をはじめ、『百人一首』、『古今和歌集』などによって歌道を身につけることを求められた。
農工商の家の子は、いわゆる「寺子屋教育」によって読み書き算盤を学ぶケースが多かったが、これは義務教育ではないから幕末に至っても文盲の者は存在した。以上のことを念頭において、渋沢栄一の身につけた学問がどのようなものであったか、という点から眺めてゆこう。
渋沢栄一は幼名を市三郎(または栄治郎)といい、天保11年(1840)2月13日、岡部藩2万250石安部家の領地である武蔵国榛沢郡(はるさわごおり)の血洗島村(ちあらいじまむら)に生まれた(今日の埼玉県深谷市)。父は渋沢市郎右衛門(いちろうえもん)、母はお栄。市三郎こと栄一は三男であったが、兄ふたりが早世したため事実上の長男として育てられた。
当時、渋沢一族は十余戸にわかれており、一番の財産家は渋沢宗助、母お栄の渋沢家は「中の家」と呼ばれていたから「末の家」もあったのかもしれない。「中の家」の当主は、市郎右衛門を通り名とする伝統があった。お栄の父の市郎右衛門は渋沢宗助から三男の元助を婿としてもらい受け、この通り名を元助にゆずると隠居して敬林と号した。
さて、「中の家」は農業に従事するかたわら藍を製し、養蚕業もおこなっていた。しかし、製藍、養蚕は商業だから、大きな利益を生ずることもあれば、大損するケースもある。お栄の父の時代にはこれらの商売はうまくゆかず、「中の家」は衰運にむかっていた。だからお栄に婿入りした伝助あらため市郎右衛門には、何よりも「中の家」の立て直しが求められた。その、栄一の父の大奮闘ぶりは次のようなものであった。
「当時の必要染料たる藍の製造は、其(その)材料たる生藍(きあい)の品質を鑑別し得て、能(よ)く中(あた)ると中らざるとに、其結果の利不利が岐(わか)れるのである。というが市郎右衛門は其鑑別が甚だ精詳で、近郷皆及ぶべからずと讃称したほどであつた。敬林が因(よ)つて以(もっ)て失つたところを、市郎右衛門は因つて以て得たのである。そして更に余力を以て荒物業をはじめた。荒物業といふのは、云ふまでも無く質朴なる村落の百貨店であつた」(幸田露伴『渋沢栄一伝』)
この新たな事業にも成功したのだから、栄一の父はよほど商才に長けた人物だったのだろう。おかげで「中の家」は、市郎右衛門の実の父渋沢宗助家に次ぐ富裕な家柄となった。
農工商の家の子は、いわゆる「寺子屋教育」によって読み書き算盤を学ぶケースが多かったが、これは義務教育ではないから幕末に至っても文盲の者は存在した。以上のことを念頭において、渋沢栄一の身につけた学問がどのようなものであったか、という点から眺めてゆこう。
渋沢栄一は幼名を市三郎(または栄治郎)といい、天保11年(1840)2月13日、岡部藩2万250石安部家の領地である武蔵国榛沢郡(はるさわごおり)の血洗島村(ちあらいじまむら)に生まれた(今日の埼玉県深谷市)。父は渋沢市郎右衛門(いちろうえもん)、母はお栄。市三郎こと栄一は三男であったが、兄ふたりが早世したため事実上の長男として育てられた。
当時、渋沢一族は十余戸にわかれており、一番の財産家は渋沢宗助、母お栄の渋沢家は「中の家」と呼ばれていたから「末の家」もあったのかもしれない。「中の家」の当主は、市郎右衛門を通り名とする伝統があった。お栄の父の市郎右衛門は渋沢宗助から三男の元助を婿としてもらい受け、この通り名を元助にゆずると隠居して敬林と号した。
さて、「中の家」は農業に従事するかたわら藍を製し、養蚕業もおこなっていた。しかし、製藍、養蚕は商業だから、大きな利益を生ずることもあれば、大損するケースもある。お栄の父の時代にはこれらの商売はうまくゆかず、「中の家」は衰運にむかっていた。だからお栄に婿入りした伝助あらため市郎右衛門には、何よりも「中の家」の立て直しが求められた。その、栄一の父の大奮闘ぶりは次のようなものであった。
「当時の必要染料たる藍の製造は、其(その)材料たる生藍(きあい)の品質を鑑別し得て、能(よ)く中(あた)ると中らざるとに、其結果の利不利が岐(わか)れるのである。というが市郎右衛門は其鑑別が甚だ精詳で、近郷皆及ぶべからずと讃称したほどであつた。敬林が因(よ)つて以(もっ)て失つたところを、市郎右衛門は因つて以て得たのである。そして更に余力を以て荒物業をはじめた。荒物業といふのは、云ふまでも無く質朴なる村落の百貨店であつた」(幸田露伴『渋沢栄一伝』)
この新たな事業にも成功したのだから、栄一の父はよほど商才に長けた人物だったのだろう。おかげで「中の家」は、市郎右衛門の実の父渋沢宗助家に次ぐ富裕な家柄となった。
父のお家立て直しから始まった渋沢家の経営改善手腕
岡部藩安部家も渋沢市郎右衛門の才覚に注目していたらしく、御用達(ごようたし)に指名した。藩に出入りすることを許され、御用達とされた者は、藩の都合によって米や金銀の献上を命じられることがある。しかし、その一方で名字帯刀を許され、行政に関与することもできるから、これは社会的に認められた人物となったことを意味する指名でもあった。
初めは村役人、次に組頭、そして名主見習いに登用された市郎右衛門の任は、「郷内の治安を図り、農工商業を督視し、貢税を徴収し、小物成(こものなり/雑税=筆者注)を運上し、用水・堤防・井堰(せいえん)等の事に至るまで、凡て公事を管掌して、上下の間に立ち、能く民情を通じ里政を齊(ととの)ふるに在(あ)つた」(幸田露伴『渋沢栄一伝』)。
後述するように渋沢栄一は大変運の良い人であるが、最初の幸運はこのように財力と見識を併せ持つ父とおもいやりの心深い母の間に生まれたことであった。
初めは村役人、次に組頭、そして名主見習いに登用された市郎右衛門の任は、「郷内の治安を図り、農工商業を督視し、貢税を徴収し、小物成(こものなり/雑税=筆者注)を運上し、用水・堤防・井堰(せいえん)等の事に至るまで、凡て公事を管掌して、上下の間に立ち、能く民情を通じ里政を齊(ととの)ふるに在(あ)つた」(幸田露伴『渋沢栄一伝』)。
後述するように渋沢栄一は大変運の良い人であるが、最初の幸運はこのように財力と見識を併せ持つ父とおもいやりの心深い母の間に生まれたことであった。
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