「知っている」の罠

終身雇用があたりまえと言われていた日本の雇用形態が様変わりしていると聞くようになって久しい。総務省労働力調査によれば平成27年の非正規従業員職員の割合は37.5%である。

 終身雇用があたりまえと言われていた日本の雇用形態が様変わりしていると聞くようになって久しい。総務省労働力調査によれば平成27年の非正規従業員職員の割合は37.5%である。「入社した会社で真面目に言われたとおりに仕事をしていれば、多くの会社員は、生活には困らない、そこそこ幸せに一生を暮らせた時代があった」というような話を大先輩方から聞かされると、「それってどこの世界の話ですかぁー」と尻上がりに声が上がる20代、「それはよかったですネッ」と冷ややかに語尾を切る30代、「そんな話されても…」と語尾が濁る40代。そして、無言で「年金は大丈夫だろうか…」と計算をはじめる50代。あらゆる世代の会社員が仕事に不安を感じているように見える。
 
 この不安の根本を探り、解決するために、政治・経済を学ぶことや、そもそも人間の幸せとは何かを考えるために、宗教・哲学など人文系の学問を学ぶことは、もちろん大切だ。それに加えて、会社員や自営業の人にとって、最も身近な“仕事についての学問”である『経営学』を学んで、漠然とした不安の正体を明らかにして対処できれば、毎日の心持ちが変わるのではないだろうか。もし問題の解決に至らなくても、ビジネスに対する見方や考え方が絶対唯一のものでないことがわかるだけでも、仕事での行き詰まり感から脱することの助けになるだろう。

 「アントレプレナーの経営学」(2016年3月 慶應義塾大学出版会から発刊予定)は、世界的に起業家教育を行っているカウフマン財団が出版したUnlocking the Ivory Tower: How Management Research Can Transform Your Business, by Eric R. Ball and Joseph A. LiPuma, Kauffman Fellows Press, 2012の翻訳本で、戦略論から複雑系まで経営全般にわたる広い範囲の理論を8分野に分類して、代表的な考え方についての理論と主要な論者を紹介している。「理論と実務の橋渡し」をすることを目的とするこの本で紹介される様々な理論は、ビジネスだけでなく生き方にもヒントを与えてくれる。

 例えば、「アントレプレナーの経営学」第2巻では、シム・シットキンの論文「失敗を通じた学習―小さな失敗の戦略」(1992)を紹介していて、次のような実験の話を載せている。

 6匹の蜂と6匹のハエを瓶に入れる。この瓶の底面には照明が当てられ、瓶の上部は空いている。蜂は底面から外に出ようとしているうちに死んでしまう。ハエは広範囲にランダムに飛び、一匹残らず瓶から脱出するまで飛び続ける。
 蜂は、光の方向に出口があることを「知っている」から、明るい底面から脱出しようとする。

 シットキンの論文は、この蜂とハエの実験を例えとして示し、実際には企業組織における成功と恩恵および負の側面との関係について検証を行い、組織学習についての論を展開している。経営者や管理者が、この論文から、組織学習についての知見を得ることができるのは当然として、一個人にとっても、「知っている」ことが命取りになるという話から、仕事だけでなく、人生における様々な判断についての示唆を得ることができる。

 シットキンの論文では、成功には、現状満足、探求的活動の制限、矛盾する情報に対する注意力の低さ、新しい手続きを試すこととへの無関心さ、リスク回避などの負の側面があることを挙げて、実験的に負の体験をすることで、成功に向けての行動を学習できる可能性について述べている。

 経営学の論文では、しばしばレンズ(Lens)という言葉が使われる。レンズの倍率を変えると見えていなかったものが見えることから、経営学のレンズを使って、経営上の出来事を観察すると、いろいろなものが見えてくることを意味する。
 成功によって生じる恩恵に気付く人は多いだろうが、シットキンの論文では、成功によって生じる負の側面があること、そして失敗から学ぶことがあることに着目した組織学習の可能性を提案している。まさに見えないものを見るレンズを使ったと言えよう。

 もし今、うまくいかないことがあるなら、「知っている」ことを疑い、「知っている」ことに矛盾する出来事に対して注意力を向け、「知らなかったことを」を探求活動し、新しい手続きを試してみてはどうだろうか。