インプットから決められたプロセスで成果物を生み出す演繹法、そしてインプットと成果物から新しいプロセスを生み出す帰納法、これらの思考法は実務階層に必要な能力と位置づけられます。第2回で記述した経営階層に必要な能力とは大分異なる内容となります。
東洋論理とは?
「東洋に思想はあっても論理はあるの?」というのが多くの人の認識かと思われます。しかし、哲学者の山内得立氏が『ロゴスとレンマ』『随眠の哲学』(岩波書店刊)で説いたのが「テトラレンマ」です。これは龍樹という仏教者が著した『中論』という本の「第18章アートマンの考察・八」から抜き出した論理です。
「第一律」 AはAである
「第二律」 AはA’でもある
「第三律」 AはAであり、AはA’でもある
「第四律」 AはAであるでもないし、AはA’であるでもない
一見すると、全くなんのことかわからないですね。原文を引用すると以下の通りとなります。
「第一律」 一切はそのように〔真実〕である
「第二律」 また一切はそのように〔真実〕ではない
「第三律」 一切はそのように〔真実〕であり、またそのよう〔真実〕ではない
「第四律」 一切はそのように〔真実〕であるのではないし、
またそのように〔真実〕ではないのではない
これがもろもろのブッダの教えである。
まさに禅問答のようですね。これを私なりに解釈してみたいと思います。
最初にオレンジジュースがあったとします。第一律は、「ジュースはオレンジジュースである」となります。ここで誰かがグレープジュースを作ったとします。そうすると「ジュースはグレープジュースでもある」となります。二つの種が出そろったので、第三律は、「ジュースは果物ジュースである」となります。つまり、ジュースという概念が、一つの種の定義から果物という類で定義されたことになります。これはモノの分類における上位の集合への整理方法ですね。このような抽象化により、色々な果物の種に対応したジュースが生まれることがわかります。しかし、最後の第4律では「ジュースはオレンジジュースでもなく、グレープジュースでもない」で終わるのですが、これをどう解釈したらよいのでしょうか。
山内得立氏は、テトラレンマを「もの」の論理ではなく、「こと」の論理だと主張しています。つまり意味ですね。そうすると第4律は、ジュースを物理的属性で定義するのではなく、意味で定義するべきである、という主張となります。例えば「ジュースは、食べ物を喉ごしよく、液状にしたもの」といった定義が浮かびます。もっと抽象化しますと、「ジュースは、味よし・色よし・喉ごしよし・栄養価よし・の飲み物」という定義が挙げられます。これはジュースの理念を定義したことになりますね。こうなるともっと色々なジュースの創造ができる気がしてきます。
つまりテトラレンマ論理の意味するところは、分別の論理から脱却した「理念により包む」論理ということが言えます。色々な存在をあらしめている「理念」、つまり、「それぞれの存在意義」によって存在を包み込んでいく論理ということになります。従って、その理念に呼応する未知の存在も包んでいるということになります。図示すると次図のようになります(当初のAが理念によりA''に広がっています)。
「第一律」 AはAである
「第二律」 AはA’でもある
「第三律」 AはAであり、AはA’でもある
「第四律」 AはAであるでもないし、AはA’であるでもない
一見すると、全くなんのことかわからないですね。原文を引用すると以下の通りとなります。
「第一律」 一切はそのように〔真実〕である
「第二律」 また一切はそのように〔真実〕ではない
「第三律」 一切はそのように〔真実〕であり、またそのよう〔真実〕ではない
「第四律」 一切はそのように〔真実〕であるのではないし、
またそのように〔真実〕ではないのではない
これがもろもろのブッダの教えである。
まさに禅問答のようですね。これを私なりに解釈してみたいと思います。
最初にオレンジジュースがあったとします。第一律は、「ジュースはオレンジジュースである」となります。ここで誰かがグレープジュースを作ったとします。そうすると「ジュースはグレープジュースでもある」となります。二つの種が出そろったので、第三律は、「ジュースは果物ジュースである」となります。つまり、ジュースという概念が、一つの種の定義から果物という類で定義されたことになります。これはモノの分類における上位の集合への整理方法ですね。このような抽象化により、色々な果物の種に対応したジュースが生まれることがわかります。しかし、最後の第4律では「ジュースはオレンジジュースでもなく、グレープジュースでもない」で終わるのですが、これをどう解釈したらよいのでしょうか。
山内得立氏は、テトラレンマを「もの」の論理ではなく、「こと」の論理だと主張しています。つまり意味ですね。そうすると第4律は、ジュースを物理的属性で定義するのではなく、意味で定義するべきである、という主張となります。例えば「ジュースは、食べ物を喉ごしよく、液状にしたもの」といった定義が浮かびます。もっと抽象化しますと、「ジュースは、味よし・色よし・喉ごしよし・栄養価よし・の飲み物」という定義が挙げられます。これはジュースの理念を定義したことになりますね。こうなるともっと色々なジュースの創造ができる気がしてきます。
つまりテトラレンマ論理の意味するところは、分別の論理から脱却した「理念により包む」論理ということが言えます。色々な存在をあらしめている「理念」、つまり、「それぞれの存在意義」によって存在を包み込んでいく論理ということになります。従って、その理念に呼応する未知の存在も包んでいるということになります。図示すると次図のようになります(当初のAが理念によりA''に広がっています)。

東洋論理と観の目
第3回で経営理念プロセスと理念価値の重要性について触れましたが、テトラレンマ論理はこの理念価値の重要さを主張していることになります。目指すべき理念価値を設定し、その具現化されたサービスによって社員・ユーザーを包み込んでいく、ということが経営階層の重要な働きとなるわけです。換言すれば、提供しているサービスが、本当に目指している理念価値と合致しているのか、の振返りがとても大切であるということになります。
余談ですが、西洋で始まったデパートでは紙袋により商品を包みます。昔の日本では風呂敷で商品を包みました。この風呂敷には、色々なものを包むしなやかさがありますね。この風呂敷の働きこそ、経営階層に求められる「包む」能力だと言えるのではないでしょうか。
余談ですが、西洋で始まったデパートでは紙袋により商品を包みます。昔の日本では風呂敷で商品を包みました。この風呂敷には、色々なものを包むしなやかさがありますね。この風呂敷の働きこそ、経営階層に求められる「包む」能力だと言えるのではないでしょうか。

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