その輪には、「在青州作一領」が表に、「布杉重七斤」が裏に描かれています。意味は、「私は青洲で襦袢を一枚作った。重さは七斤である」という禅問答です。これは『碧巌録』にある『趙州万法帰一』という公案で、僧が趙州に「万法は一に帰す、一は何れのところにか帰す」と問うたのに対し、趙州曰く「我れ青洲に在って一領の布杉(ふきん)を作る、重きこと七斤(きん)」というやりとりからきています。
万法とはあらゆる存在のことですが、趙州は布杉を存在に見立て、一を重さ七斤に見立てています。白隠禅師はこの「重さ七斤」を輪の裏側に描いています。この意味するところは、「あらゆる存在は目に見えない精神世界にある理念価値から作られている」ということを暗示していると思われます。
第3回で、「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生じる。万物陰を負いて陽を抱き、沖気を以って和を為す」という老子の文を紹介しましたが、この陽陰冲の三気があらゆる理念価値を作成していると言えます。日本画の余白は、この理念価値を暗示していると言えましょう。
万法とはあらゆる存在のことですが、趙州は布杉を存在に見立て、一を重さ七斤に見立てています。白隠禅師はこの「重さ七斤」を輪の裏側に描いています。この意味するところは、「あらゆる存在は目に見えない精神世界にある理念価値から作られている」ということを暗示していると思われます。
第3回で、「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生じる。万物陰を負いて陽を抱き、沖気を以って和を為す」という老子の文を紹介しましたが、この陽陰冲の三気があらゆる理念価値を作成していると言えます。日本画の余白は、この理念価値を暗示していると言えましょう。
最後に
ドイツの哲学者オイゲン・ヘリゲル氏の著作に「弓と禅」という本があります。同じタイトルで、中学校の校長経験者で弓と禅を修めた中西政次氏の本があります(春秋社刊)。精神エネルギーと導通していく世界は、中西氏の著作の方がとても詳しく記述されています。本稿の最後に、中西氏の導通体験の述懐の言葉を「弓と禅」から引用したいと思います。
「一輪挿しから紅の山茶花の花びらがこぼれていた。捨てようとして数片を掌にのせた。見れば見るほどその色は鮮やかに、しかも厚みを増して、宝石の如く光輝いて見える。立っている両足にずっしりと重みが感ぜられ、更にそれが地心に連って千鈞の重みで引かれているようで動こうにも動けない。不思議な体験だった。そのままどれほどの時間が経過したのだろうか。二、三秒なのか、十分くらいなのか、それは私にもわからない。ふと我に返って縁側に出て花びらをそっと捨てた。庭を見ると樹々が燦然と光って見える。苔も濡れたように青々と輝いて見える。目をあげると、屋根も山も空もすべて異様に光り輝いて見える。更にそれらの奥に、すばらしい何物かが見える。私は唯恍惚と見とれていた。踵をかえして茶の間に行った。家内や娘がいた。家内や娘も私の目下としての家内や娘の目下としての家内や娘ではなくて、強い光を放つ尊い存在として見えるではないか。それは神とも仏ともいうべき尊い存在であった。あなたはよう私の妻になって下さった。娘たちよ、よく私の所へ生まれてきて下さった。ありがたいことだと思われた。妻や子供だけではなかった。机も本も額も襖も目に触れるものすべてが強い光を放っているではないか。翌日になってもかわらなかった。山川草木すべてが絶対者の一部として感ぜられると共に、その奥に絶対者それ自体が観取されるではないか。」
関連リンク
お気に入りに登録