第28話:傲慢な上司・大久保利通の危険な経済感覚

日本の資本主義の礎を築いた渋沢栄一。2022年に日本最高額紙幣の“顔”となる「日本資本主義の父」がどのように生まれたかを、史実第一主義の直木賞作家・中村彰彦氏が紹介する(編集部)。

国家予算感覚がない大蔵大臣・大久保利通と対立

明治四年(1871)7月に廃藩置県をおこなった当時、日本という国の国家予算はなきに等しかった。藩を廃して県にしたところで、ただちに歳入が増すわけではない。国庫の度支(たくし/会計収支)に一定の限度も設定されていなかったから、何事においても「進歩」を旨とした各省は、深い考えもなく大蔵省に大口の支出を要求するばかりであった。

このような悪しき傾向を渋沢栄一が「俗にいう取ったり使ったり」(『雨夜譚』)と表現しているのは、筆者にはまことに興味深い。栄一の故郷武州の血洗島村あたりでは「取ったり使ったり」といったのであろうが、江戸ではこれを「取ったか見たか」といい、「手に取って見るか見ないうちに、あっという間に金などを使ってしまうことの喩(たとえ)」である。(穎原〈えばら〉退蔵著・尾形仂〈つとむ〉編『江戸時代語辞典』)

陸海軍は軍備充実のために費用を要求、司法省は裁判所の拡張を願い、文部省は教育令の普及をはかるために大蔵省にまとまった額面の出費を求める。

「需(もと)むる所は八方でこれに応ずるは一ヵ所だによって、井上(馨、大蔵大輔)も大いにこれに苦慮したことであったが、大久保(利通、大蔵卿)はとかく財政には注意せずして各省の需要に応じてその費用を支弁せんとする風だによって、自分は独りこの間に居て特に苦慮尽力をしました」(『雨夜譚』)と栄一がやや苦々し気に回想しているのは、大蔵省ナンバー4の大蔵大丞である自分が同僚たちと合議して歳入・歳出の統計表を作り、「量入為出(りょうにゅういしゅつ/入るを量〈はか〉って出だすをなす)」の方針によって各省の経費に定額をもうけようとしているのに、トップの大蔵卿が出費に無頓着なのは困る、と思っていたからである。

そして9月を迎えると、ついに栄一は見解の相違から大久保大蔵卿と衝突することになった。これについては『雨夜譚』岩波文庫版にして2ページ半の栄一なりの回想があるが、九月のことを八月とするなど記憶の誤りが2、3あるので、より客観的な井上馨の伝記『世外井上公伝』一からおなじ問題を記した部分を引いてみよう。

「その後太政官で予算会議の結果、大久保は陸軍に約八百万円、海軍に約二百五十万円を支出することを承諾し、而(しこう)して帰省(きしょう)の上、之を大蔵大丞であつた谷鉄臣(てつおみ)・安場保和(やすばやすかず)・渡辺清・岡本健三郎・渋沢栄一等に告げた。然(しか)るに予算の事は大蔵省では既にその法則を立て、収入が決定した上で之を確定する方針であるから、長官の命令であるからとて、さう直(す)ぐに御請(おうけ)をするわけには行かなかつた。そこで渋沢等はこれに答へて、『唯今此処(ここ)で直ぐに御確答は出来難い。各々(おのおの)その席に戻つて調査した上で、精々(せいぜい)御希望に添ふやうに致しませう。殊(こと)に今日は井上大輔も不在であるから、後(のち)に篤(とく)と相談致しましせう。』といったところ、大久保は殊の外不機嫌で、『今日太政官の議に上り、これだけの予算が無くては何等(なんら)施設も出来ない。故(ゆえ)にこの予算は今直ぐに決めて貰(もら)はねばならぬ。』とのことであつた。

渋沢も聊(いささ)か腹に据兼(すえか)ねたと見え、『上(かみ)長官に対して甚だ敬(けい)を欠くやうではあるが、抑々(そもそも)予算と申すものは、左様なもので無いと思ふ。即ち収支を併(あわ)せ論ずることが予算であつて、これだけの収入がある故に、之を如何(いか)に分配するかといふのが予算の本意である。然るに今収入の途未(みちいま)だ究める所が無いのに、唯(ただ)支出することのみを論ずるのは、小官の甚だ危(あやぶ)む所である。陸海軍の経費を定めることは固(もと)より当然ではあるが幾許(いくばく)の額を捻出して得られるかを調査した上で之を決答するも、猶(なお)遅しとはいひ難い。』と答へると、大久保は激怒して、然らば渋沢は陸海軍を疎外するのであるかなどと、聊か脱線した叱責の仕様(しよう)でその日は済んだのであつた」

このような大久保利通の性格を幸田露伴が、「切れる人ではあつたが、勘定には暗く、所謂(いわゆる)『握(つか)み出し勘定』で捌いて行く」(『渋沢栄一伝』)と表現しているのは、つかんで投げるように金を手荒く使う人物、という意味である。また栄一は、激怒した大久保に対して恐れ入ったりはせずこう答えた、という。

「イヤ決して陸海軍の経費を支出せぬという意味ではありませぬ。勿論、陸海軍がなくては国を維持することの出来ぬということも存じて居ます。しかし今大蔵省は一歳(1年)の歳入統計が出来ぬ前に、支出の方ばかり心配してしかも巨額の定額を立てるのは、第一に会計の理に悖(もと)ってすこぶる危険の処置であろうと思惟して腹蔵なく愚見を述べたのであります。もとより御採用の有無は大蔵卿の御胸中にありましょう」(『雨夜譚』)

栄一の大久保大蔵卿に対する返答は理に適った堂々たるもので、精神のバランスの良さと深い知性がよくあらわれている。

VS大久保利通によって官僚生活に嫌気が差す

しかし、栄一は大久保とのこのやりとりから大蔵官僚であることに嫌気が差し、官途を辞することを考えはじめた。栄一がそう考えたのは、これが初めてではなかった。大蔵省に通商司という部局が置かれ、全国8都市に有力商人を集めて通商会社、為替会社を設立させて全国的な流通統制をおこなおうとした試みは廃藩置県と同時に中止されたが、大蔵権大丞(ごんのだいじょう)時代の栄一は、大隈重信や伊藤博文とともに大阪へ出張してこれら有力商人たちと何度も面談したことがあった。これは「官」が「民」を育てようという試みだったから、ただでさえ官尊民卑の風潮の根強い時代のこと、有力商人たちは栄一らに対し、旧来の「卑屈の風」で対応するのみであった。

「在官の人に対する時にはただ平身低頭して敬礼を尽すのみで、学問もなければ気象(気性)もなく、新規の工夫とか、事物の改良とかいうことなどは毛頭思いもよらぬ有様であるから、自分は慨嘆の余り、現職を辞して全力を奮って商工業の発達を謀ろうという志望を起こしたのであります」(同)

栄一は、今の商人たちに商工業を株式会社に改良進歩させる能力はない、ならば自分が官途を退いて身を商業にゆだね、日本の将来の商業に一大進歩をうながそう、との壮大な志を抱いたのである。

だが、大阪からの帰途、その思いをうちあけられた大隈や伊藤は、志には賛成しても栄一に大蔵省を去られてはなにかと差し支えを生じるので、「今少し見合わせろ」としか答えず、栄一もその指示に従った。というのに栄一が大久保とのやりとりからふたたび官途を辞する気になったのは次のような理由からだった、と『雨夜譚』はいう。

「大久保は今国家の柱石ともいわれる人で現に大蔵省の主権者でありながら、理財の実務に熟せざるのみならず、その真理さえも了解し難い、井上は切に拮据(きっきょ/努力)して経営しつつあるが、【略】大丞以下の職員は多く大久保の幕僚であるから、井上の趣旨を遵奉(じゅんぽう)してその職に勉強して指揮に従うことは甘んじない。しかる時は大蔵省は向後(きょうこう)不規則な会計事務を取ってついに永続せざるのみならず、世間の識者に笑われるような始末に陥るのほかはない」

このくだりから明白に読み取れるのは、かつて有力商人たちへの失望感から商業界への転身を考えた栄一が、おのれの経済音痴ぶりを棚に上げて部下たちを問答無用で使おうとする大久保を嫌悪するあまり、ふたたび商業界への転身を夢見はじめた、という心の揺らぎである。

渋沢栄一が大久保利通の傲慢さを嫌った理由

それにしても、渋沢栄一はどうしてここまで大久保を嫌ったのか。そう考えると思い出されるのは、栄一が17歳だった安政3年(1856)、岡部藩の若森という代官に五百両の御用金の上納を命じられた際のやりとりである。

御用金のことは一応父に伝えて、その後で返事をお伝えします、と応じた栄一に、「十七にもなって居るなら、モウ女郎でも買うであろう。シテ見れば、三百両や五百両は何でもないこと【略】、一旦帰ってまた来るというような、緩慢(てぬるい)事は承知せぬ」などと若森代官は「上から目線」の横柄な口調で反論した。対して栄一は、頑としておのれの主張を貫いたのであった(第2話参照)。

栄一が晩年まで「若森」という代官の名を忘れなかったのは、金がないから御用金をほしいくせに傲慢な口調で上納を命じる尊大な態度を激しく憎んだために違いない。このような愚かな代官とも真っ向から論争することを許されない農民階級に生まれた栄一は、その後武士から大蔵官僚へと転身した後も自身の理財の才をさらに磨き、大蔵省ひいては国家のために矜持(きょうじ)をもって働きつづけてきた。大久保はその栄一にかつての若森代官のような故なき傲慢さで接したため、すっかり白眼視されてしまったのである。

そこから大蔵省の将来にまで不安に感じた栄一は、浜松町から海賊橋(かいぞくばし/四日市青物町と萱場町の間)近くに転居していた井上馨に面会し、本稿に紹介した経緯を伝えて、明日辞表を出す、と告げた。すると井上は、ねんごろに助言してくれた。

「当冬大久保は暫時東京に不在と為ることとなつてゐる・・・・・・・・・・・・・から【中略】、この際一時耐忍(たいにん)して予算を調査し、且(か)つ目下の急務たる省の施設を促進し、而して後去ることにしては如何(いかが)。先ずそれまでは辞表は控へて置いた方が良からう」(『世外井上公伝』一)

「罷(や)めるときは、おれも一緒に罷める」とさえ井上はいった。栄一はこの言に従うことにするのだが、傍点部分は大久保が右大臣岩倉具視(ともみ)を特命全権大使とする遣米欧使節団(岩倉使節団とも)に加わって海外へ出張する、という意味である。

参議木戸孝允(たかよし/桂小五郎改め)、工部大輔となっていた伊藤博文ら46名に従者18名、留学生43名を加えた107名が横浜を出港したのは明治4年(1871)11月12日のことであった。

大久保利通の嘘と膨張する軍事費

ところが大久保が主張した「陸軍約800万円、海軍約250万円」という予算案は、明治3年7月に設置されて陸海軍を統括した兵部省において「予算総額850万円」とし、陸軍常額800万円、海軍常額50万円とされていたのに200万円ほど色を着けたものであった(篠原宏『開銀創設史』)。

ところが大久保不在となった明治4年10月から12月までの軍事費は、兵部省が陸軍省と海軍省にわかれたこともあり、陸軍省769万3,407七円、海軍省86万9,043円、計956万8,390円までふくらんでしまった(同書所収、「海軍経費一覧」より)。

この合計金額は歳出の16.5パーセントに相当し、そのパーセンテージはぐんぐん上がって20年後には歳出の29.82パーセントに達するに至る。近代日本は渋沢栄一のいう「量入為出」主義ではなく、大久保利通流の「握み出し勘定」主義によって軍事大国への道を歩んだのである。