第27話:廃藩置県の前後と新貨幣制度に取り組む渋沢栄一の苦労

日本の資本主義の礎を築いた渋沢栄一。2022年に日本最高額紙幣の“顔”となる「日本資本主義の父」がどのように生まれたかを、史実第一主義の直木賞作家・中村彰彦氏が紹介する(編集部)。

井上馨との初対面

ここで時計の針を明治3年(1870)11月、すなわち渋沢栄一が大蔵少丞となって3ヵ月後までもどし、大蔵省の内情をみてゆく。

この月、大蔵少輔伊藤博文は貨幣制度を改正するための準備としてアメリカ視察旅行に出発した。それに先立つこと2ヵ月、9月2日をもって大蔵大輔大隈重信は参議に昇任。その大隈は伊藤不在で空席となった大蔵少輔に、これまで大蔵大丞兼造幣頭(ぞうへいのかみ)として大阪に赴任していた井上馨(かおる)を推薦して認められた(井上馨侯伝記編纂会編『世外井上公伝』一)。だから厳密にいえば、井上馨が大隈・伊藤・渋沢栄一ら「築地の梁山泊(りょうざんぱく)」の一員となったのは上京して以降のことである。

天保6年(1835)生まれと栄一より5歳年上の井上はまだ聞多(もんた)と称していた元治元年(1864)9月25日夜、長州藩の内部抗争から敵対した俗論党(佐幕派)の刺客三人に山口で襲われ、背、後頭部、右頬から唇にかけて、下腹部、足の数ヵ所を斬られるという瀕死の重傷を負った。たまたま山口に来ていた美濃の浪士で蘭医(オランダの医学を学んだ医者)でもあった所郁太郎(ところいくたろう)が傷を焼酎で洗い、畳針で傷口を縫ってゆくと、その数なんと50針に及んだ(同)。そのため、その後撮影された井上の写真は顔に修正を加えたものばかりとなるが、この人物が栄一に与えた第一印象は「あまり(に)ひどい人」というものであった(沢田章編『世外侯事歴 維新財政談 附・元勲談』)

ふたりの初対面は、伊藤の渡米直前、築地の伊藤邸でのこと。栄一が玄関に入ると奥から出てきた洋装の男が、「オゝ貴様渋沢か」(同)と馴れ馴れしく話しかけてきた。栄一が恭(うやうや)しく礼をしても、井上は一向頓着せず、「おれが井上だ、どうかよろしく頼む」というややぞんざいな態度であったので、栄一は「あまり(に)ひどい人だ」と思ったのだという。

そんなふたりがいずれ一蓮托生の仲になっていったのも歴史の面白さである。

大蔵省の内情

懸案の貨幣制度改正はふたりばかりか大蔵省全体のテーマであったが、方向性を決めるに当たっては伊藤博文がアメリカから次々と送ってくるレポートが大きな示唆を与えた。この文書類に栄一がどのように関与したかは『雨夜譚』の次のくだりから知れる。

「一行がアメリカへいってだんだん現行の法規、条例等を調査して、公債の方法はかくかくでその理由は云々(うんぬん)、また紙幣の引換は全国の国立銀行を創設させてこれによって金融の便利をつけ、あわせて紙幣兌換(だかん)の事を取扱(とりあつか)わせ、その銀行の条例はかのように制定せられたい、また貨幣問題については、(略)東洋は銀貨国だから銀を貨幣の本位にするのが適当であるということに一定して居ったが、さてアメリカに来て見るとアメリカも金が本位に立ってあり、ヨーロッパの国々も多くは金貨を本位としてあるから、(略)日本も金に改定し(せ)られたい。……」

これら伊藤からの報告は大蔵省への意見具申であり、文書の往復は改正掛が取り扱ったから、その掛長である栄一が論点を整理して自分の調査を原稿に付記し、連署して井上馨に上げる、という流れをたどった。そのうちのある報告書に、アメリカでは1860年頃、多くの紙幣を増発したため価値が大きく下落して国家的危機となったがナショナルバンクを造ってこれを乗り切った、とあり、そのときの紙幣と金貨の交換法、その手続きの仕方が詳細に語られていたことは、いずれ栄一が大いに参考とするところとなる。

明治4年(1871)5月に伊藤が帰国すると、前後して大蔵卿伊達宗城(むねなり)は欽差(きんさ)大臣(特定の事件の処理のために置かれた大臣)に任命されて清国におもむき、次の大蔵卿には大物参議の大久保利通が就任。大蔵少輔から大蔵大輔に昇った井上馨は、大久保に仕える身となった。

明治日本の最大のテーマ「廃藩置県」

その頃、新生日本の最大かつ緊急のテーマは「廃藩置県」であった。明治2年(1869)1月20日~6月にかけて政府は274四藩の全藩主から土地(版)と人民(籍)を朝廷に返還させ、これを「版籍奉還」と称した。その後、藩主は知藩事(ちはんじ)という名の地方長官に任命されて国から藩政を委任されていたが、財政悪化や農民・不平士族らの不穏な動きにより、より強力で中央集権的な政府が願わしい事態となっていった。

それを一気に解決するプランが廃藩置県であり、明治4年7月14日に発布された詔(みことのり)によって261藩が廃されて県が置かれ、各県には政府命令の知県事(ちけんじ)(のち県令)が赴任することとなった。その結果、全国は3府302県となり、これが年末までに統廃合されて3府72県となった。同時に知藩事の職は廃止され、かれらには東京在住が命じられたため、ここに元藩主たちと旧領地との関係は断ち切られた。

かつての幕藩体制を「幕」が「藩体制」を統括した支配体制と考えれば、「幕」は大政奉還によって過去の存在となったものの「藩体制」は明治になってからも存在し、知藩事たちがなおも封建的な権力を保持して各地に居すわっていた。いわば廃藩置県は、明治四年まで残存していたその「藩体制」を完全に解体するためのこころみであった。ということは、下手をすると各地に不平士族たちが反旗をひるがえして暴動に及び、結果として戊辰戦争につぐ内戦が勃発する危険があったということでもある。そのため政府は薩摩・長州・土佐の3藩から兵力を献上させ、これを御親兵(天皇が直率する兵力、のちの近衛兵)としてから廃藩置県をおこなうほど神経をつかっていた。

そんな危険性を孕(はら)んだ計画がみごとに成功した理由は、争いを好まぬ日本人の民族性もあろうが、知藩事たちには家禄と華族としての身分が保障されたことの方が大きかったのではなかったか。

新たな貨幣制度へ移行する苦労

そして、栄一が廃藩置県の準備段階でにわかに多忙になったのは、諸藩が発行していた藩札をすべて回収し、新紙幣に交換する必要に迫られたためであった。

理屈をいうなら、藩札とは藩主が領地内限定で通用させた紙幣なのだから、藩主に処分させればよい。しかし、大蔵省がそんなことを主張すると「竹槍(たけやり)蓆旗(むしろばた)の騒動を見るに至るは必然」(『雨夜譚』)と思われたので、国が藩主あらため知藩事に代わってこれを回収し、新紙幣に交換することになったのだ。

その交換の方法は7月14日の廃藩置県の詔の発布と同時に発表すべきだ、ということになったので、直前の13日は日曜日であったが、栄一は特に出勤して準備に没頭した。14日に発布された「諸藩紙幣引換ノ事」の文面は下のようなものとなった。

「貨幣は天下一定の品にこれあるべきところ、従来諸藩に於て、各種々の紙幣を製し、その通用価位(かい)(値段)区々(まちまち)に相成り、不都合の事に候。今般廃藩についてはすべて今七月十四日の相場をもって、追ってお引き換え相成り候条、この旨かねて相心得べき事」(原文漢字片仮名混じり、読み下し筆者。『太政官日誌 明治四年附纂(上篇)』、橋本博編著、『改訂 維新日記』第三巻所収)

この時点での藩札は1,690余種に及び、金額は当時通用の政府紙幣(後述)に換算して3,855万1,302円であった(塚本豊次郎『改訂 本邦通貨の事歴』)。

ちなみに、明治政府がこれまでに発行した紙幣は次の2類9種である。

1、太政官札(10両、5両、1両、1分〈4分の1両〉、1朱〈16分の1両〉)
 発行高四4,800万円
2、民部省札(2分、1分、2朱、1朱)
 発行高七750万円

また、廃藩置県後の明治4年10月~5年4月までの間には次の3類18種が発行された。

3、大蔵省兌換証券(10円、5円、1円)
 一、二が不換紙幣だったのに対し、この証券は兌換紙幣として発行され、860万円を製造。のちに不換紙幣として51万余円を発行。
 
4、開拓使兌換証券(10円、5円、1円、50銭、20銭、10銭)
 発行総額250万円、そのうち132万円を開拓使が開拓事業に使用。

5、新紙幣(100円、50円、10円、5円、2円、1円、半円、20銭、10銭)
 駐日ドイツ公使フォン・ブラントの紹介により、同国人ドンドルに5,000万円の製造を依頼。目的は一、二の紙幣と交換し、精密な印刷技術によって偽造を防止するため。のちに5,000円の製造を追加注文。

栄一は藩札を最終的に五の新紙幣に切り換えてゆくのだが、その苦労を幸田露伴はこう語る。

「各藩は各藩で藩債を有し、又藩の紙幣即ち藩札を発行してゐた。其藩債・藩札を中央政府の公債と貨幣に引換へる場合に、新旧価値の判断が正当に、且(かつ)円滑に実行されぬ時は、其藩府と人民とは非常な危険に曝(さら)されねばならぬのであり、経済上より引いて政治上の混乱を惹起する虞(おそれ)が有つた。井上の命によつて、栄一は【略】廃藩布告の政治的発令と相応じて藩債・藩札の経済的移行を無理の無いやうに取計らふ実務順序を立てた。そして此一大事は順当に行はれた。勿論其功を栄一のみに帰すべみでは無いが、夙(はや)くより官民の問の経済事情に能(よ)く通じて、兼ねて常識に富める栄一の周到なる考慮と穏和なる処置とが、種々の摩擦扞格(かんかく)(意見の不一致)の起るべき場合と平夷(へいい)(平穏)に済ませたに力の有つたことは誰も認めたことであつたろう」(『渋沢栄一伝』)

廃藩置県の発布からちょうど1ヵ月後の同年8月13日、栄一が大蔵少丞から大蔵大丞に昇進したのは、この功績に対する褒賞人事であったに違いない。