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渋沢栄一の「士魂商才」 ビジネスリーダーなら知っておきたい「日本資本主義の父」の肖像

第26話:渋沢栄一の経営哲学「士魂商才」が花開く――富岡製糸場建設

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初の官営模範工場「富岡製糸場」オープン

西洋風の工場は煉瓦(れんが)建造物でなければならないが、ここで問題になったのは、日本人が煉瓦というものを知らないことであった。そこで惇忠は手計村に近い明戸(あけど)村の韮塚(にらづか)直二郎に命じ、同村の瓦師を富岡につれて来させた上でブリュナーから煉瓦とはどういうものかを講釈させた。煉瓦は、土を高温で焼きあげて作る点では陶器とおなじ。幸い富岡の一里東の福島町にいい土があったので、これによって初めて国産の煉瓦が作られた。レンガの「ガ」に「瓦」という字が当てられたのは、瓦師の努力によって国産煉瓦が誕生したためかもしれない。

セメントもなかったので、惇忠は手計村から堀田鷲五郎・千代吉という腕利きの左官親子を招き、漆灰の高級品を工夫させてこの苦境を打開することに成功した。これらの奮闘の結果を幸田露伴はこう述べている。

「遂に洋館三棟を組上(くみあ)ぐるを得るに至つた。これは殆(ほとん)ど我邦(わがくに)に於ける煉瓦建造物の最初だつた。それで、明治五年になつて、製糸工場一棟、長さ三十六間幅八間(65.4メートル×6.5メートル・筆者注)のものから繭(まゆ)置場二百坪、其外(そのほか)に三百人の工女を置くべき部屋、倉庫、乾燥場、貯水池等も漸次に出来、そして機械も据付(すえつけ)られた」

日本式の建築物は木造なので、柱を林立させないとひろい室内空間を現出させることはできない。対して富岡製糸場の大工場は、300坪近いひろさがあるというのに煉瓦の頑丈な壁に支えられているため一本の柱も必要としなかった。

苦戦する人材募集

地元民は大煙突から吹き出る黒煙を見上げて唖然茫然としていたが、ブリュナー、バスチャン、機械師ベランが赤ワインを飲むのを目撃するや、またもや悪い噂を流した。「あの異人どもは血の酒を飲む悪魔で、かれらのなすところはすべてキリシタン伴天連(バテレン)の魔法だ」、と。話は次第にオーバーになり、あの異人どもに近寄ると生血を吸われる、という吸血鬼伝説まがいのデマに育っていったため、工女を募集しても応募する者がひとりもいないという深刻な事態となった。

せっかくの大工場が出来上がったというのに繭から糸を取って生糸にするのは雇い入れたフランス人女性4人のみ。これではならじと、惇忠は13歳の自分の娘・勇子、同族の尾高治三郎の妻・若子、武州の豪農青木伝二郎の母・照子ほか30名の工女を雇い入れた。

やがて、その苦境を救おうとする心強い味方もあらわれた。「築地の梁山泊」における渋沢栄一の仲間、大蔵少輔伊藤博文と大蔵大丞の井上馨である。このふたりが今は山口藩となっている旧長州藩の士族たちから女子200名を募って工女としたため、人手不足は一気に解消されることになった。

その工女のうちに井上馨の姪ふたり――鶴子と仲子が加わったことも、栄一発案の官営初の模範工場を「築地の梁山泊」グループが何としても失敗させない、と決意していたことをうかがわせる。

渋沢栄一の経営哲学「士魂商才」とは

もとより栄一自身が、富岡製糸場の経営に携わったわけではないから、その成功を栄一の功績のひとつとしては言い過ぎになる。しかし、粗悪な蚕卵紙の問題から生糸の改良、近代的製糸工場の開設へとゆくべき道を指示したのは栄一であり、官営初の模範工場が栄一の従兄尾高惇忠の苦心によって成功をおさめたことは、「官業を以て民業の模範を示し、幕府時代の旧型を破り、以て明治の百般商工業発達の先鋒となり、随(したが)つて日本の社会全体を新意気に燃え立ちて進歩するに至らしめた(幸田露伴『渋沢栄一伝』)。

江戸時代の商人たちは、いかに富裕であったところで武家政治を支える縁の下の力持ちでしかなかった。しかし、渋沢栄一はサムライ・スピリット(士魂)と理財の才をあわせ持っていた珍しいタイプの日本人であり、「和魂漢才」ならぬその「士魂商才」は、この頃から国造りのために発揮されはじめたのである。栄一自身は「士魂商才」について、左のように語っている。

「人間の世の中に立つには、武士的精神の必要であることは無論であるが、しかし武士的精神のみに偏して商才というものがなければ、経済の上から自滅を招くようになる。ゆえに士魂にして商才がなければならぬ」(『論語と算盤』)

その栄一は、古いつき合いのある尾高惇忠をやはり士魂商才ある者とみなし、かれが製糸場作りに才気を見せる姿を静かに見つめていたのであったろう。
 
なお、明治8年(1875)にこの製糸場がお雇いフランス人との契約をおえて日本人独力の運営に変わったとき、大蔵大輔になっていた松方正義は惇忠ににこやかに告げた。

「君の面(かお)も立派に立つたが、予の器量も為(ため)に上(あが)つた」

無骨者の多い薩摩藩の出身者にしては、しゃれた褒め方である。

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プロフィール

作家 中村 彰彦

作家 中村 彰彦

1949年栃木県生まれ。作家。東北大学文学部卒。在学中に「風船ガムの海」で第34回文學界新人賞佳作入選。卒業後1973~91年文藝春秋に編集者として勤務。1987年『明治新選組』で第10回エンタテインメント小説大賞を受賞。1991年より執筆活動に専念し、93年、『五左衛門坂の敵討』で第1回中山義秀文学賞を、94年、『二つの山河』で第111回(同年上半期)直木賞を、2005年に『落花は枝に還らずとも』で第24回新田次郎文学賞を、また2015年には第4回歴史時代作家クラブ賞実績功労賞を受賞する。近著に『幕末維新改メ』(晶文社)など。史実第一主義を貫く歴史作家。

ホームページ:中村彰彦公式サイト

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