第25話:「近代日本の建設」を目指し、新制度構築と鉄道を整備

日本の資本主義の礎を築いた渋沢栄一。2022年に日本最高額紙幣の“顔”となる「日本資本主義の父」がどのように生まれたかを、史実第一主義の直木賞作家・中村彰彦氏が紹介する(編集部)。

新政府の無秩序な官僚機構を正す

渋沢栄一が民部省兼大蔵省に登庁するようになってすぐ気づいたには、「省中はただ雑踏を極むるのみで長官も属吏もその日の用に逐(お)われて」いるだけ、というとんでもない乱雑さであった(『雨夜譚』)。

諸藩から参与、貢士、徴士として登用された者はなるほど俊英ぞろいではあろうが、幕末に討幕運動に挺身したことはあっても実際に政務を見た経験のある者は少なかった。しかも、かつて尊王攘夷思想をよしとしていた者たちは復古主義者でもあるため、洋風の制度を取り入れるのを嫌がる傾向にあり、そうでない者たちも旧幕府のやり方を踏襲することを好まなかった。それが省中を無秩序にしている根本原因であったので、栄一は大輔の大隈重信に組織の改正掛を置くべきだ、と進言。明治2年(1869)12月末には太政官がこれを許し、租税司からは栄一自身が改正掛に選ばれた。監督司、駅逓(えきてい)司などの部署からは複数の改正掛が任命され、栄一を掛長として改正局が立ちあげられた。

組織の人・栄一らしい発想だが、改正局に長官は置かず、卿・大輔・少輔が会議に出席しても身分の上下に関わりなく明朗公平に研究・合議をすすめるよう工夫したのも栄一であった。改正局が栄一の任官後数10日にして省中の調査機関でありトップの諮問機関でもあると定められたのは、栄一がいわゆる【仕事の早い男】だったことを物語ってありあまる。

人材募集と新制度構築

ほかの部署にあって改正掛を兼務した人々を見るうちに栄一が感じたのは、改正局にもっと人材が必要だ、ということであった。そこで明治3年(1870)春、栄一は大隈に申請して以下のような静岡藩士たちを登用してもらった。主な顔ぶれは以下の通り。

赤松則良(あかまつ のりよし):のち海軍中将、貴族院議員
前島 密(まえじま ひそか):のち駅逓頭(えきていのかみ)、関西鉄道会社・北越鉄道会社社長、貴族院議員)
杉浦愛蔵(靄山/あいざん):のち駅逓正、内務省大書記官地理局長
塩田三郎:のち清国公使

ほかに文筆、技芸、語学に長じる者も採用し、その得意とするところを業務に生かすようにしたため省務は円滑にこなされるようになり、栄一はすこぶる愉快を覚えたという。

以下は、栄一が改正掛長として関与した新制度の数々である。

[租税]
年貢米やその他の物納を通貨で収税する大方針を立てる。

[駅逓法の改正]
宿場ごとに伝馬(てんま/馬の提供)・助郷(すけごう/近在からの労働力の提供)を置いた旧幕府の制度を廃し、駅逓司(のちの駅逓寮)以外の信書の逓送を禁じ、郵便制度を確立した。担当者は駅逓権正(ごんのかみ)に登用された前島密。

[度量衡]
改正掛に統一法を調査させる。

[全国測量]
着手の順序と経費につき調査。

その他の新制度については、うまくまとめられている幸田露伴『渋沢栄一伝』に代弁してもらうことにしよう。

「貨幣の制度、禄制の改革、戸籍の編成、これらの事も調査論考し、賤民の呼称と差別取扱を廃し、国家に功徳(くどく)あるものを賞して勲章・・賞牌を授くるの制・・・・・・・・を立てる等、数年の後に至つて行はれたる諸般の議を立てた。電信、鉄道を興すに就いては・・・・・・・・・・外債を起す・・・・・ことに絡まつて、政府内にも異論の有つたのを、啓蒙的に大(おおい)に論破して、遂に其事を成立たしめたのには、改正掛の力甚だ多かつたのであつた」

功ある者に勲章を与える制度を提案したことについては、栄一がマルセイユ滞在中、大衆の見物するなかで軍人が叙勲される姿を眺め、いたく感心したことが思い出される(『航西日記』)。賞牌を与える制度については、パリ万博においてみごとな工芸品にグランプリ、金・銀・銅メダル、褒詞のいずれかが与えられたことを参考にしたに違いない。栄一は民部省兼大蔵省の改正掛長というポストを得たことにより、フランスで知ったシステムのうち有用と感じたものを国政に生かせるようになったのである。

「公私混同」などという表現もあるように、一般に「公」(官、公務)と「私」(民、私事)とは対立する概念として受け止められることが多い。しかし、この時代の栄一はフランスで私的に身につけた知識を公務に生かす、という幸福に浸ったのであった。

渋沢栄一と鉄道

また、栄一と鉄道との関係についていうと、フランスへの往路にスエズに接近した頃その関心がスエズ運河の開削という国際的大事業にむけられていて、鉄道に対する興味はまだめばえていないようであった。しかし栄一は『航西日記』1867年7月1日の項に、あらまし次のように書いている。

1855年の第1回パリ万博に品物を出品した人数は2万2,000人。1862年の第2回ロンドン万博への出品者は2万8,000人。ところが今回の第2回パリ万博の出品者は6万人、産物の量は2万8,000トンを下らなかった。

「かくのごとくあまたの品物を迅速に陳列することができたのは、欧州の大地に蒸気機関車鉄道を新設せしによる。蒸気機関を動かす汽力は千馬力に及び、かくのごとき大事業を短期間で成しとげたのは皇帝の褒賞にあずかるべき功績である」(大意)

このときから栄一は鉄道の強大な輸送力に注目するようになっていた。しかもその後の栄一はパリ滞在中に2万両を予備金としておく必要を感じ、フランスの公債証書と鉄道債券を買っておいた。そのような経験からかれは、鉄道会社を育成するには鉄道債券を発行して資本を集めればよい、とすでに知っていたのである。

ヨーロッパの生糸業界壊滅から貿易問題を解決

さらに栄一は、貿易問題にもかかわった。日本は長く鎖国をつづけてきたため、ヨーロッパ人の好む日本の産物といえば、長崎の出島からジャワのバタビアやオランダ本国へ帰る人々が購入する日本茶や煙草くらいしかなかった。幕末に開港してからもさしたる輸出品を持たない状況がつづいていたが、1840~50年代にかけてフランス・イタリアでは蚕に奇病が発生して壊滅的な打撃となった。

蚕を育てて生糸を取るには、業者から蚕卵紙(さんらんし)(蚕紙、蚕種とも)を買い、そこに産みつけられている卵を蚕に育てる必要がある。フランス・イタリアが東洋に蚕卵紙を求めはじめたため、慶応元年(1865)から輸出量が急増。これが蚕卵紙の粗製乱造につながり、蚕卵紙の質の悪さは生糸の粗悪さにつながる。その傾向が明治3年(1870)になってもつづいていたため、横浜の西八番商会のドイツ人ガイセン・ハイメルが大隈にクレームをつけた。

大隈はハイメルの批判を改正掛に伝えて生糸の改良を指示したが、「養蚕の事に就(つい)て知つて居る人が、ひとりも無かつた」(沢田章編『世外侯事歴 維新財政談 附・元勲談』中の栄一のコメント)

役人たちはほとんどすべてが武士の出であるのに対し、養蚕は伝統的に養蚕農家のおこなうものとされていたからである。ただし、ひとり栄一のみは血洗島村の実家でも養蚕がおこなわれていたこと、藍の買い入れに出むく信州では特に養蚕農家が多かったことなどから、「養蚕の事を能く知つて居つた」(同)。そこで改正掛では各開港場に輸出品検査所を設けて商品の信用を保つよう心掛け、同年八月には「蚕種製造規則」を政府から公布するに至った。

しかも栄一という人物の面白いところは、当面の問題を解決するだけでよしとするのではなく、さらに前進しようと考える点にある。生糸の質を安定させることができれば、リヨンで見学した職工が7、8,000人も働く大規模な製糸・紡績工場の経営も可能になり得る。ことに栄一は、ルーアンで見学した木綿織物製造所では蒸気機関による機械織りで1時間に29メートルもの量を織ると知り、驚いて『巴里御在館日記』に書きこんだことを忘れてはいなかった。

そこで、フランス式の製糸場を設ければ初めは出費が多くともいずれ大きな利益を生ずるだろう、と大隈に提案すると、実行せよ、との返事。栄一は、ハイメルの紹介でブリュナーというフランス人技師をお雇い外国人として迎え、この大計画の実現にむかって歩みはじめた。この計画については後述するが、さらに栄一は実現をめざした国策は下のように多岐にわたった。

「宝源局といふものを設けて、農業・工業・鉱業等の発達を計り、実業実技の教育を施し、博物館・植物園・動物園を立て、専売特許法を立て、著作権法を設け、養育院を立て、職業紹介所を設けようなどと、文明の増進、産業の開発、国家の富強の為に、あらゆる施設を為そうと主張した」(幸田露伴『渋沢栄一伝』)

博物館。植物園、動物園を造ろうというのも、パリでの視察にもとづいた発想だが、これがいずれは実現したことを思うと、栄一が百科全書派的知識人として近代日本の建設に貢献することが虹の如くであったことが知れよう。

それにしても、本稿で紹介した改正案のほとんどが明治2年暮から3年7月頃までの短期間に出されたものであることには、あらためて驚かざるを得ない。3年7月には民部省と大蔵省は分離して卿・大輔・少輔の兼任もなくなり、栄一は大蔵省の人間になって8月24日に従六位、大蔵少丞(しょうじょう)に任じられた(改正掛は四年八月まで大蔵省内に存続)。少丞は大蔵卿・大輔・少輔・大丞に次ぐ地位で大録(だいさかん)の上である。

大蔵卿は伊達宗城、大輔は大隈重信、少輔は伊藤博文、大丞は井上馨(かおる/長州藩士、のち外務・農商務・内務・臨時総理・大蔵の各大臣、侯爵)、得能通生(とくのう みちお/薩摩藩士、のち紙幣局長・印刷局長)、上野景範(かげのり/同、のち元老院議官)の三人、同役の少丞には安藤就高(なりたか/大垣藩士、のち会計検査員副長)がいた。この時代の新政府最大の実力者は、参与から参議に昇っていた大久保利通。大隈と伊藤はともに築地に住まい、大久保の信任を受けて飛ぶ鳥を落とす勢いであった。

また、栄一は神田猿楽町の住人であったものの井上馨とともに大隈・伊藤派と見られ、あわせて「築地の梁山泊(りょうざんぱく)」と形容する声もあった。梁山泊とは『水滸伝(すいこでん)』に記述される豪傑たちの巣窟のことだが、この場合は近代日本の建設のために闘志を燃やしていた男たちに送られた賛辞である。