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渋沢栄一の「士魂商才」 ビジネスリーダーなら知っておきたい「日本資本主義の父」の肖像

第21話:フランス帰りの「理財家」の片鱗をあらわす渋沢栄一

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日本の資本主義の礎を築いた渋沢栄一。2022年に日本最高額紙幣の“顔”となる「日本資本主義の父」がどのように生まれたかを、史実第一主義の直木賞作家・中村彰彦氏が紹介する(編集部)。

ドイツ人実業家 スネル兄弟に出会う

1868年10月11日にマルセイユ港を出帆した渋沢栄一たち一行は、順調な航海をつづけて12月16日に横浜に到着した。ここからふたたび年月日を和暦で示すことにすると、この日は明治元年の11月3日である。航海の間、栄一は寄港地から乗船してくる人々から日本に関する風説を聞き出すことに努めた。

その栄一は、香港へ着港したときに初めて、それまで籠城戦によって新政府軍と戦いつづけていた会津藩がすでに開城・降伏したことを知った。会津藩の籠城戦開始は、慶応4年(1868)8月23日。9月8日に慶応という元号は「明治」に改元され、会津藩が降伏したのは9月22日のことであった。

また、やはり香港では旧幕府軍副総裁・榎本武揚が旗艦「開陽丸」のほか「回天丸」「朝陽丸」「長鯨丸」「美加保丸」など旧幕府所有の艦船を率いて蝦夷地(北海道)へ脱出したことも知った。

「これはいかなる軍略に拠ったものであるかすこぶる解し兼ねる次第であると思いながら上海へ来てみると、同処の旅館にドイツ人のスネールと長野廉次郎とが止宿していた」(『雨夜譚』)

一般に「スネル兄弟」といわれるプロシャ出身の武器商人の、兄はヘンリー、弟はエドワルド。ふたりは仙台・米沢両藩を盟主として会津藩救済のために発足した奥羽越列藩同盟を支援。横浜から大量の武器をチャーター船で新潟へ運んだことによって知られ、長岡藩家老・河合継之助(つぎのすけ)がスネル兄弟から機関銃の原型・ガットリング機関砲を2門買いつけたことは有名である。

ヘンリーは会津藩の若松城下(福島県会津若松市)に屋敷を構え、同藩の事実上の軍事顧問となって松平容保(かたもり)から「平松武兵衛(ぶへえ)」という名を与えられていた。一方のエドワルドは会津藩の戦況が不利になったと見て、さらに同藩に武器を供給するため上海へ渡航していたのだ。

エドワルドの同行者・長野慶次郎は、ただしくは桂次郎。26歳の旧幕臣で、万延元年(1860)、遣米使節団に英語の見習い通訳として同行。アメリカではその可愛らしさから「トミー」と呼ばれて人気者になり、「トミーズ・ポルカ」という曲さえ出来た。その後、歩兵頭並として、幕府の瓦解に立ち会った桂次郎は、エドワルド・スネルに通訳として同行していたのである。

上海にて戊辰戦争最終局面と蝦夷独立の動きを知る

桂次郎と栄一は以前からの知人であったので、桂次郎は寄港した徳川昭武に栄一が随行していると知ってすぐにエドワルドとともに会いにきた。

会津はすでに落城したと香港で聞いたが、実説か。栄一がそうたずねると桂次郎は、「その確報はまだ得ぬ。しかしながら仮会(たとい)落城したからといっても残党が多くあるから、是非一度は挽回せんければならぬ。またこのスネール氏などは外国人ではあるが(奥羽越列藩同盟に)真に力を入れて居る」(同)と答えて、意外なことを提案した。

「すなわち民部公子の進退で(あるが)、今直(ただち)に横浜へ御帰りにならずに、ここから直に箱館へ御連れ申して、箱館に雄拠して居る海軍の首領としたならば、一体の軍気も大いに張るであろう、是非ともこの事に同意あるように」(同)

蝦夷地へ脱走した旧幕府軍は、この10月中に箱館五稜郭(ごりょうかく)を政手とする「事実上の政権(オーソリティー・デ・ファクト)」を樹立し、諸外国もこれを認めていた。その総裁に推された榎本武揚に、日本から分離独立しようという野心はない。新政府軍が皇子のだれかを赴任させてくれれば、これを主人として旧幕臣たちが自分たちの手で生活できる属国を作りたいと考えていた。

栄一に、かつて尊攘激派を率いて横浜を焼き討ちすると考えた頃の血の気の多さがまだ残っていたら、この誘いに乗って徳川昭武と箱館へ直行する気になっていたかもしれない。しかし、2年近くにわたってヨーロッパ諸国を視察する間に万事を老成したまなざしで眺めるようになっていた栄一は、調和型の性格でもあったから、自分の任務は水戸藩主の座を約束されている昭武を無事に帰国させることだと思い、桂次郎の提案を断固拒否して横浜へ帰ってきたのであった。

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