第17話:フランスという名の「大学」体験【前編】

一橋慶喜が将軍に就任し、その弟・昭武がフランスで開催される「パリ万博」に貴賓として招かれた。慶喜の判断で、渋沢栄一は洋行の御供として選ばれた。船上生活で異文化に溶けこむ柔軟さや好奇心の強さを発揮した渋沢栄一は、フランスに到着してすぐに、最新式の軍港を訪れ、さまざまな最新技術を目の当たりにする。
日本の資本主義の礎を築いた渋沢栄一。2022年に日本最高額紙幣の“顔”となる「日本資本主義の父」がどのように生まれたかを、史実第一主義の直木賞作家・中村彰彦氏が紹介する(編集部)。

フランスに到着した将軍弟一行の顔ぶれ

マルセイユ到着3日目の4月5日午前8時、徳川昭武一行は写真館へゆき、記念の集合写真を撮影した。『航西日記』と渋沢栄一のメモ『巴里御在韓日記』、『御巡国日記』とを収録した『渋沢栄一伝滞仏日記 全』(昭和3年〈1928〉日本史籍協会)の巻頭に配されたその写真には「巴里万国博覧会派遣委員一行」23名が2列に並んで収まっている。

上段左端にいるのが渋沢篤太夫こと栄一で、肩書は御勘定格陸軍附調役(しらべやく)。下段中央の椅子に腰かけた小柄な15歳の昭武は、例の水戸藩士7人にかこまれている。駐仏公使に指名されて同行した向山隼人正(黄村)は、傳役の山高石見守(信離)、イギリス公使館付通弁アレクサンドル・フォン・シーボルト以外の顔触れはまだ紹介していなかったので、栄一側から右端に立つ人物までの姓名をまず確認しておこう。

山内文次郎:小人格(こびとかく)砲兵差図役勤方(つとめかた)
高浜凌雲:奥詰(おくづめ)医師
木村宗蔵:砲兵差図役勤方
水戸藩士5人、
杉浦愛蔵:靄山、外交奉行支配調役
山内六三郎:堤雲、外交奉行支配通弁官
生島(いくしま)孫太郎:外交奉行支配調役並出役
日比野清治:外国奉行支配調役
箕作(みつくり)貞一郎:麟祥(りんしょう)、御儒者次席翻訳御用頭取

下段、シーボルトの向かって右側から――。
保科俊太郎:歩兵頭並
山高石見守
水戸藩士
徳川昭武
水戸藩士
向山隼人正
田辺太一:外国奉行支配組頭、向山公使付
レオン・ジュリー:仏国領事

洋装に革靴姿はシーボルトとジュリーのみだが、ほかにひとり、この写真には収まらなかったフランス人が存在した。フロリ・ヘラルドといい、一行が4月3日にグランド・ホテル・ド・マルセイユに入った直後から『航西日記』ほかに登場する人物である。

フロリ・ヘラルドという人名は『明治維新人名辞典』(吉川弘文館)やWikipediaにも採録されていないが、マルセイユまできて一行の到着を待っていたのは、駐日フランス公使レオン・ロッシュかその通弁官メルメ・デ・カションの推薦により、幕府委託の名誉領事になっていたためであった。

日本人初、最新式軍港で最新技術を見学する

4月6日午前7時、これらの一行は馬車に分譲し、マルセイユより34里西方、フランス南東部にあって地中海に臨み、フランス第一の軍港とされているツーロンを見学に行った。

「軍艦ならびに諸機械を貯ふ所を見る。【略】鎮台付属の官吏出迎ひ、兵卒半大隊ばかり警衛し、奏楽などあり。ほどなく汽船にて軍艦に請(しょう)じ、大砲、蒸気機関などを見をはれば発砲調練をなし、また我らにも大砲を試発せしめ、それより他船三艘に移る。毎船祝砲あり。【略】鎮台で昼食を供され、製鉄所、溶鉱炉、反射炉ほかを見る。武器庫と人を改定へ沈没させる術も見る」

潜水服の頭部に通じたゴム菅から空気を送って、その潜水服を着用した潜水夫を海底で作業させるのを見学した、ということ。

なお、明治の日本海軍は、戦術はイギリスに学びながら軍艦製造はフランスに依頼していた時代があった。日清戦争の頃の連合艦隊旗艦であった巡洋船「松島」、おなじく「厳島(いつくしま)」はツーロン近くにあるフランスの地中海鉄工造船所であり、この2艘とあわせて「三景艦」と総称された「橋立(はしだて)」は横須賀造船所製であった。

横須賀造船所は慶応2年(1866)8月、幕府勘定奉行・小栗順忠がフランス経済使節クーレとの間にむすんだ600万ドルの借款契約によって造られたものであったこと。「松島」、「厳島」の設計は、明治19年(1882)に来日したフランスの設計技師士官ミール・ベルタンであったこと。これらのことをあわせ見ると、日本人として初めてツーロン軍港を訪問した渋沢栄一たちの果たした歴史的意味合いが良く納得できよう。

幕府の悲願「散兵戦術」を目の当たりにする

7日には、陸軍の三兵調練を見学した。三兵とは前兵、砲兵、騎兵のこと。これら3種の兵力が自由に隊列を崩して敵に当たる戦術は、「散兵戦術」といわれ、アメリカの独立戦争の際、イギリスと戦ったアメリカ兵が兵力の少なさを克服するために考案した。この戦術がナポレオンの採用するところとなって「ナポレオン流の散兵戦術」と呼ばれるようになると、その戦術書はオランダ語にも訳され、あるものは長崎へ運ばれて日本人蘭学者の手に渡った。こうして村田六蔵こと大村益次郎が散兵戦術を実戦に応用するに至り、幕府軍を撃破したのが「第2次長州征討戦(四境戦争)」であった、という流れである。

この大敗に衝撃を受けた幕府は、散兵戦術の習得を決定。フランス教官派遣を依頼した結果、この慶応3年1月中に同国の清国分遣隊参謀長シャノアン参謀大尉以下のフランス軍事顧問団が来日。同年6月から翌年1月まで、幕府陸軍の一部に散兵戦術を教え込んだ。

栄一たちがフランスをめざすのと入れ違いに来日したフランスの軍人たちも存在したわけだが、栄一たちも第2次長州征討戦のショッキングな結果はよく知っていた。それだけに、本場の散兵戦術の調練を視察するのにも力が入ったことであろう。

ちなみに、慶応4年(1868、9月8日明治元年)1月3日開始の鳥羽伏見の戦い以降の一連の戊辰戦争には、旧幕府陸軍のうちから「伝習歩兵隊」「伝習士官隊」などと呼ばれる部隊が参戦した。この「伝習」とは、フランス軍事顧問団から散兵戦術を教えられた、という意味である。

栄一自身も一橋家の兵力増強のため農兵を募ったことがあり(第7話)、今回の任務のひとつも「陸軍附調役」であったから、かなり熱心に調練を見たようである。中でも栄一はかつて出陣して軍功を立てた者が下馬した総督から大きな声で厚労を伝えられ、勲章を胸に飾られる光景に感心してこう書いている。

「勲章はたびたび功あればそのつど受章させて胸に飾らせる。故にフランス人は老幼男女に至るまでこれを見て有功の人なるを知りてあがめ貴ぶといへり。誠に士を賞する所明(あきら)かにして功を励ますこと公なり。故に士卒に至るまで軍に赴き、身命を軽んじ、立功(りっこう)を重要とす。国のために死をいとはざる所以(ゆえん)、これを見てその素(もと)あるを知る」

栄一も一橋家に456、7人の農兵を集めた際に白銀5枚、時服ひと重ねの褒美を受けたことがあった。日本の武家社会の褒賞とはそういうもので、功ある者の姓名を外部にむかって発表したり、表彰式をおこなったり、勲章を与えたりする習慣はない。それは国民皆兵、すなわち国民のすべてが兵役に服する義務がある、との制度が生まれていないことにも原因があった。

幕府でも諸藩の軍でも、有事の際の命令系統は将軍ないし藩主がトップ、その下に直臣(じきしん)たちが将校として横並びになるが、直臣たちは「お目見え以上」と「お目見え以下」にわかれるから、トップと直接対話できない者もいる。その直臣たち家臣団、すなわち陪臣たちこそ兵士として船上の前線に姿をあらわす者たちだが、陪臣たちはあるじたる直臣に忠義を尽くすことを求められた存在でしかないから、トップである将軍や藩主のために死んでも戦おう、とは考えない。

余談ながら、昭和49年(1974)3月9日、それまでフィリピンのルバング島に潜伏しつづけていた小野田寛郎・予備陸軍少尉が、それまで一切呼び掛けに応じなかったにもかかわらず、かつて上官だった谷口義美・元陸軍大佐が出てくるよう命じると、これに従ってフィリピン軍に投降する、というセンセーショナルな出来事が起こった。これは、日本の武士や兵士の忠誠心はトップではなく直属の上官に捧げられる、という武士道の特徴をよく示した逸話であった。

栄一もこういった武士道の感覚を身につけていたからこそ、国のために死ぬ覚悟のできている兵士たち、その兵士の武功を高く評価する制度の双方に感動を覚えたのだ。はしなくも栄一は、近代国家にとって軍隊はどうあるべきか、という問題の答えまで教えられた形になった。