第15話:渋沢栄一が「公益」を悟ったスエズ運河体験

一橋慶喜が将軍に就任し、その弟・昭武がフランスで開催される「パリ万博」に貴賓として招かれた。慶喜の判断で、渋沢栄一は洋行の供に選ばれる。船上生活で異文化に溶けこむ柔軟さや好奇心の強さを発揮した渋沢栄一は、途中、寄稿した中国(清国)で、宗主国たるイギリスの、政治、経済、司法の制度作り、歴史に対する知識の探求心、学校経営が盛んなさまを目の当たりにする。幕末の弱体化する日本には足りない物、イギリスが強盛を誇る原因を見出す経験となった。
日本の資本主義の礎を築いた渋沢栄一。2022年に日本最高額紙幣の“顔”となる「日本資本主義の父」がどのように生まれたかを、史実第一主義の直木賞作家・中村彰彦氏が紹介する(編集部)。

イギリスの植民地支配の巧妙さが発揮された香港統治

『航西日記』は、渋沢篤太夫(とくだゆう)こと栄一が外国奉行支配調役(しらべやく)の杉浦靄山(あいざん/通称・愛蔵、諱〈いみな〉は譲)との共著としてまとめたもの。靄山も漢籍を深く学んでいたらしく、この日記には多彩な漢語がちりばめられている。

しかし、現代人にはすでに耳遠くなった表現も少なくないので、西暦2月24日に上陸した香港についての記事は原文の雄渾(ゆうこん)な筆致を尊びながらも若干表記を改め、新仮名遣いにして引用してみよう。

「この地は広東(カントン)府の突端の海中にある孤島にして、港内に小さな諸島をめぐらして風涛を支え、海底深くして船舶を碇泊せしむるに足れり。平坦の地少なく山の腰を切りて道路を設け、海岸は支那人の家居多く、山手は尽(ことごと)く西欧人の住居なり。アヘン戦争の後、清国が賠償金を支払ったのとは別に英国に割譲せし地なり。往昔は荒れたる僻村なりしも英国の版図(はんと)に属せしより山を開き海を埋め、舗装道路を造り、石造りの下水を通じてようやく人口稠密(ちゅうみつ)、貿易繁盛の一富境となりしとぞ。【略】

今、英人の商業を東洋にほしいままにし、利益を得るは一八五八年よりインドを直接統治するによるといえども、物資の流通・運輸を自在ならしめて利益を掌握し、通関を専断して貿易を独占するは理由なきにあらず。土民の保護のため陸海の兵備を厳(げん)にし、その国の栄誉と利益を守る。鎮台の将は全権を委任された威望ある者なり。近来、この地に大審院を置き、裁判官を在留せしめ、東洋に分在せる国民の訴訟を審判すといえり」

このような植民地の政治、経済、司法の制度とともに、栄一が関心を寄せたのは「英華書院」その他の私立学校があり、中国の歴代王朝で出版された書物を蒐集(しゅうしゅう)してイギリス人に歴代の沿革、政典、律令から日用文までを研究させていることであった。こうして中華文明を起こした要素と精神まで学術的に分析するところに、栄一はイギリスが強盛を誇る原因を見出したのだ。