第12話:将軍弟・徳川昭武のフランス留学の供に選出される

日本の資本主義の礎を築いた渋沢栄一。2022年に日本最高額紙幣の“顔”となる「日本資本主義の父」がどのように生まれたかを、史実第一主義の直木賞作家・中村彰彦氏が紹介する(編集部)。

降って湧いた「フランス留学」への道

渋沢栄一が原市之進に会いにゆくと、原はこう切り出した。

――来たる慶応3年(1867)、フランスの首都パリで「万国博覧会」という大きな催しがひらかれることになっており、各国の王もパリへ集まるそうだ。フランス公使レオン・ロッシュがいうには「日本からも大君(たいくん/将軍)の親戚を派遣した方がよい」とのことなので、種々評議した結果、水戸の民部公子(みんぶこうし/徳川昭武・慶喜の弟のひとり)が派遣されることになった。

万国博覧会は、1851(嘉永4年)、イギリスのヴィクトリア女王の夫アルバート公が主唱してロンドンでひらかれたのが最初である。フランスがパリ万博に幕府の代表を参加させたいと考えた背景としては、ロッシュが薩長同盟に接近しつつあるイギリスに対抗すべく幕府への梃(てこ)入れを決断。その結果、日仏貿易が著しく発展したばかりか、フランス経済使節として来日したクーレが、慶応2年(1866)8月、幕府勘定奉行・小栗忠順(ただまさ)との間に600万ドルもの借款契約を結んでいたことなどが挙げられる。ナポレオン3世が帝政をおこないつつあるフランスと幕府は、一種の「蜜月関係」にあったのだ。

原市之進は続けた。

――民部公子には外国奉行も同行するが、お上(慶喜)は、万博の公式行事が済んだならば公子を5年か7年フランスに留学させて学問させよう、と思し召しておいでだ。ところが公子側近の水戸藩士たちが公子を単独で外国へ派遣するには大反対なので、止むなく7人だけ随従を許すことにした。だが、この7人は今なお異人を「夷狄禽獣(いてききんじゅう)」の類と思いこんでいる頑固な者どもだから、このような者だけが供をするのでは何かと心許ない。そこで、ほかに山高石見守(やまたか いわみのかみ/信離〈のぶつら〉)という幕臣が御博役(おもりやく)として同行することになってはいるが、それでも水戸の7人を伴ったまま公子に学問をさせるのは難しいと思われる。ところがお上には、渋沢篤太夫(とくだゆう/栄一)こそ供の任に適当であろう、と仰せられた。拙者もお上の人選に感服し、足下(そっか)に御内意を伝えます、とお答えしたところだから、この御内意を速やかにお受けいたせ。

まことに、天から降ってきたような話であった。だが前話(第11話)で見たように、栄一は幕臣となった自分の将来に期待できず元の浪人にもどろうとしていた矢先である。栄一はぱっと将来がひらけたように感じたらしく、この直後の原とのやりとりを左のように回想している。

「自分が(の)その時の嬉しさは実に何とも譬(たと)うるに物がなかった。自分が心で思ったには、人というものは不意に僥倖(ぎょうこう)が来るものだ、と速やかに御受けをいたしますから是非御遣(おつか)わしを願います、ドノような艱苦(かんく)も決して厭いませぬと、原市之進に応えまして【以下略】」(『雨夜譚』)

下級幕臣として職務に怏々(おうおう)として楽しまない気分でいた栄一がまた浪人となっていたら、破滅型の人生を送ったかもしれない。対してフランスへの長期出張依頼は、どうなるかわからずとも大飛躍のチャンスに違いない、と感じられたのである。

あらためて原に出立日時や同行者の姓名をたずねると、下のようなことがわかった。

・出立は年内のことだろうから、1ヵ月以内に支度をすべきこと。
・外国奉行は向山栄五郎(むこうやま えいごろう/のち隼人正〈はやとのしょう〉、号は黄村〈こうそん〉)。
・水戸の7人とは菊地平八郎、井阪泉太郎(いさか せんたろう)、加地権三郎(かじ ごんざぶろう)、三輪端蔵(たんぞう)、大井六郎左衛門、皆川源吾、服部潤次郎(はっとり じゅんじろう)のこと。

故郷の父にも洋行すると伝えたものの、気になるのは生死をともにする約束の渋沢成一郎のことであった。栄一とともに一橋家家臣から幕臣となった成一郎は、薩長に通じた疑いのある禁裏御守衛の大沢源次郎という者を捕らえて江戸へ護送してゆき、まだ帰京していない。律儀で友情に篤い栄一は、成一郎宛の書状で降って湧いたような洋行計画を伝え、「あるいは行違って逢わぬかも知れぬ」(同)と断ってから洋行の支度にとりかかった。

渋沢栄一の旅支度

次に引く文で、栄一は妻子の存在を無視して自分を「独身書生」と称しているが、これは長く妻子を実家に置いて京に単身赴任していたことをいいたかったのであろう。

「しかし独身書生の手軽というものは、黒羽二重の小袖羽織と、緞子(どんす)の義経袴(よしつねばかま)1着と、今日見るとドンナ貧乏ナ馭者(ぎょしゃ)でも穿(は)かないようナ靴を買って、それからかつて大久保源蔵(不明=筆者注)が横浜で買って来たホテルの給仕などが着たと思う燕尾服の古手(古着)一枚、もっとも股引(ももひき/ズボン)もチョッキもないのを譲り受けた」(『雨夜譚』)

今日の借家を始末して衣類や道具などの整理もおわったころ、成一郎が江戸からもどったので、栄一はその身の行く末を案じ、あらまし次のように助言した。 

――お互い、最初は幕府を滅ぼす覚悟で故郷を離れたからだだが、今日幕臣となった以上はふたたび浪人するわけにもゆかぬから、いずれ亡国の臣となることに甘んじて生きてゆくほかあるまい。自分は幸い海外にゆくことになり、貴兄は国内に残るから居所は隔絶することになったが、貴兄は運を天にまかせて慶喜公のお側近くに仕える地位を得られるよう努めなさい。そしてお互いに、死ぬべきときには死恥(しにはじ)を残さぬようにしよう。(『雨夜譚』)

これが、栄一の成一郎への訣別のことばとなった。栄一がお互いの死を意識して語っているのは「禁門の変」を起こした当時の長州藩が京都守護職に就任している会津藩主・松平容保(かたもり)の打倒だけを目的としていたのに対し、今や明確に武力討幕をねらっていることに気づいていたためであろう。

それでなくても開国してまもない時代の海外出張とは、途中で客死することも覚悟し、家族や友人と水盃を交わして臨むべき大事であった。ちなみに筆者は昭和24年(1949)生まれの戦後ベビーブーム世代に属するが、高校生のとき美術教師がフランスへ研修旅行にゆくことに決まると、教師たちは壮行会を開催。その美術教師は無事帰国するや、在校生1,000名以上を講堂に集めて帰朝報告会がおこなわれたものであった。栄一が成一郎に伝えたことばは、決して大袈裟なものではない。

渋沢栄一が海外留学の供に選ばれた理由は類稀な経済感覚にあった

さて、京都滞在中だった徳川昭武14歳と水戸藩士7名、山高信離、渋沢栄一らが京を出発したのは慶応2年12月29日のこと。大坂から幕府所有の「長鯨丸(ちょうげいまる)」に乗りこみ、船中で慶応3年の元旦を祝って1月4日に横浜へ着いた。

横浜滞在の5、6日の間には、諸般の支度をしたばかりか幕府勘定奉行・小栗忠順、おなじく外国奉行・川勝(かわかつ)広道など開明的な徳川官僚たちに面会し、フランス人語学教師として来日していたビランという人物には昼食に招かれ、栄一は初めて洋食を口にした。

ここまでの部分で、栄一の回想に欠けている何点かを補足しておく。慶喜が栄一を弟・昭武の供に推挙した理由は、3つあった。

・ひとつは、昭武が水戸の7人に取りまかれていると考え方が偏屈になる怖れがあるが、栄一ならうまく折り合いをつけられるであろうという点。
・第2は、栄一は有為の人材だから昭武の留学仲間としてもふさわしい、と思われたこと。
・第3は、栄一なら庶務・会計の任に当たれる、という点であった(幸田露伴『渋沢栄一伝』)。

この時代であっても幕命によって海外に出張した者は帰国したら前借した旅費からいくら使用したかを申告し、清算をおこなわねばならない。万延元年(1860)遣米使節団の一員として渡米した小栗忠順、のちの明治7年(1874)、ロシア公使としてシベリア横断をおこなった榎本武揚のふたりはそろって算勘者(さんかんじゃ/計算の達人)であり、金銭に綺麗な性格でもあったから、帰国後まだ手許にあった残金と出費一覧表から計算によって出されたその額面との間には数10円程度の相違しかなかった(小栗の場合は数セント、榎本は数コペイカの違算)。

ただし、一般論でいうと武士には通貨を汚らわしいものとみなす感覚があり、特に尊王攘夷論者には金銭感覚にだらしのない者が多かった。慶喜は水戸徳川家の出身だけに、特に水戸人にそのような傾向が強いことを承知している。それゆえにやはり算勘者であり、播州木綿の流通ルートを作り上げて一橋家の台所事情を好転させた栄一を会計責任者として昭武に同行させれば間違いは起こるまい、と考えたのであったろう。

この「第3の点」に注目するならば、栄一が昭武の供のひとりに選ばれたのはただの「僥倖」などではなく、栄一が一橋家勘定組頭として発揮した才覚と進取の気性とを慶喜から高く評価された結果であった、とすべきである。

渋沢栄一の「洋食好み」という当時は珍しい食嗜好が渡航向きだった

また、洋食に対する反応にしても、栄一が『航西日記』に記録しているところはまことに興味深い。

これものちの話だが、明治4年(1871)に海路アメリカへ留学した旧会津藩の元白虎隊士で18歳になっていた山川健次郎は、「ジャパン号」の船中で出された洋食が臭くてとても食べられなかった。カレーライスにしてもカレーの部分がダメで、皿に添えられた「杏子(あんず)の砂糖漬」のみを副食にして米の飯だけを食べるという23日間に耐えてサンフランシスコへ渡っていった(「六十年前外遊の思い出」、『男爵山川先生遺稿』所収)。会津藩は内陸の藩だったため、肉食や生の魚を食する習慣がなかった。そのため健次郎は調理された肉の匂いが受けつけられなかったのだ。

それに較べると、栄一は一橋家に出仕したばかりで成一郎と長屋で同居していた時代には、竹の皮に包んだ牛肉を買ってきて食べることを最上の食事としていた。

慶応3年1月11日、フランスの郵船「アルヘー号」に載って横浜を出発した栄一が船内で供される洋食を美味と感じたのは、この肉食体験があったためのようだ。