経営・ビジネスの課題解決メディア「経営プロ」

渋沢栄一の「士魂商才」 ビジネスリーダーなら知っておきたい「日本資本主義の父」の肖像

第7話:一橋家の人事採用担当となり人材募集の旅へ

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

渋沢栄一の初任給と幕末日本の経済事情

栄一たちは口やかましい老人ふたりと違う詰所を与えられてほっとしたようだが、ここでふたりの「4石2人扶持」とはどの程度の収入だったかを見ておこう。

「1人扶持(いちにんぶち)」とは1日に5合、1年に1石8斗(と)の玄米を受けるという意味だから、俸給「4石2人扶持」とは年に4石+3石6斗、すなわち「7石6斗」の米を受け取る身分ということ。

ちなみに「1人扶持」とは大人ひとりが1年間なんとか食いつなぐことができて身の回りの品もそろえられる収入であり、最下級の士分の者の年収は「3両1分」とされていた(4分=1両)。これが「三一侍(さんぴんざむらい)」という蔑称の由来だが、7石6斗を当時の米価から換算すると約18両(「近世米価一覧」)。これに月々4両1分、1年に51両の手当がつけば、合わせて年収69両だから、これまで無収入だった栄一・成一郎コンビはそこそこの収入を確保したといってよい。

このふたりは、栄一の父・市郎右衛門からわたされた100両を持って上京してきたと前述したが、すでにこの100両は使い果たしたばかりか、ふたりで25両の借金ができていた。そこでまずこの借財を返済しようということになり、ふたりは宿屋から8畳2間にお勝手つきの長屋に転居。飯は自分たちで炊き、味噌汁の具やたくあんも自分たちで買い出しにゆく、という節約をして月々4両1分の手当ての出費を惜しみ、とうとう4、5ヵ月後には借金をすべて返済することに成功した。

幕末は大インフレの時代であり、借金に首まで浸って夜逃げしたケースなどは珍しくなかった。諸藩も幕府も赤字財政に苦しんでおり、特に幕府は皇女・和宮(かずのみや)と将軍・家茂(いえもち)の婚礼費用、「生麦事件」のイギリスへの賠償金30万両の支払い、家茂の上京費用などの大口出費が相ついで歳入の400万石は200万石近くまで落ちこんでしまっていた。

そういう時代にようやく一定収入を確保した栄一が、まずおこなったことが借金の清算だったというのも、経済感覚の鋭さを示した逸話ではある。

人を見る目を見込まれた第2の仕事

ところで一橋家は「摂海防禦(せっかいぼうぎょ)指揮」という慶喜のあらたな職務においては、築城学に詳しいという薩摩藩士・折田要蔵(おりた ようぞう)に幕府から100人扶持を支給させて「砲台築城御用掛(ごようがかり)」とし、大坂湾の安治川口、天保山、木津川口などに砲台を築かせようとしていた。

しかし渋沢栄一は、近々なにか事を起こす藩があるとすれば、それは長州藩か薩摩藩であろうと考えていた。長州藩はすでに無謀きわまる「馬関攘夷戦」に踏み切ったあげくに京から追放されたのだから、色眼鏡で見られるのは当然のこと。薩摩藩も国父(こくふ)・島津久光は公武合体派だが、家中には西郷吉之助(のちの隆盛)、大久保一蔵(いちぞう/のちの利通)らを領袖格とする尊攘激派「誠忠組」が育っている分だけ、一橋家としては用心を怠ってはならない存在と思われた。

栄一がその点を平岡円四郎に忠告すると、平岡も折田要蔵を深く信頼してはいなかったらしく、栄一が折田に申し入れて築城修業の内弟子となり、薩摩藩の内情を探ることになった。そのため栄一は折田とともに大坂へ下り、4月初めからおよそ1ヵ月間、土佐堀に下宿して砲台の絵図や書類を書かされる羽目になった。

栄一がさりげなく折田の言動をうかがっていると、この人物は姿形を気づかい自分を大きく見せようとするが、さしたる人物ではない。時々西郷吉之助に意見書を出したりはするものの、西郷がかれを十分に信じているというものでもないようであった。ただし、下宿先に来る薩摩藩士は少なくなく、栄一はこの前後に以下のような面々と知己になった(肩書は『雨夜譚』の成るころのもの)。

三島通庸(みちつね):警視総監
川村純義(すみよし):前海軍卿
奈良原繁:日本鉄道会社社長
中原猶介(ゆうすけ):戊辰戦争中に戦死
海江田信義(かえだ のぶよし):貴族院議員
内田政風(まさかぜ):石川県令
高崎五六(ごろく):東京府知事

これらの人々との交流には、栄一が実業界に羽ばたいてから人脈として役立ったものもあるだろう。しかし栄一の回想はそこまでは及んでいないので、次に栄一が折田の実力に見切りをつけ、5月初旬に京の一橋家へ帰参してからの動きを見る。

一橋家の人事採用担当者となる

栄一が仕官するにあたって一橋慶喜に更なる人材登用を申し入れたことは前述の通りだが、京へもどると平岡円四郎が、天下に志ある者をひろく召し抱えたいから江戸へ下って人選をしてくるように、と栄一と成一郎に依頼した。江戸の伝馬町(てんまちょう)の獄舎に投じられている尾高長七郎(栄一の従兄)を救い出す工夫をするには絶好の機会と思い、ふたりは自信たっぷりに請け合った。

「まず撃剣家あるいは漢学書生などの中で、共に事を談ずるに足るという、いわゆる慷慨(こうがい)の志気に富みていやしくも貪(むさぼ)る心のないもの、または義のある所は死を視(み)ること鴻毛(こうもう)の如しという敢為(かんい)の気魄(きはく)あるものを、合(あわ)せて三十人や四十人ぐらいは連れて来る考えであります」(『雨夜譚』)

かつて挙兵の同志を募ったときは秘密裡に動くしかなかったが、今回は公然と人選をおこなうことができる。ふたりはかつての同志たちを再結集させて登用することもできると、平岡から別宴を張ってもらって勇躍江戸をめざした。

これが5月下旬から6月のことで、無事に江戸に到着したふたりは、一橋家の目付(めつけ)・榎本亨造の浅草堀田原の家を宿とし、まずは関東における一橋家領地を巡回して人材を得ようとした。同家の関東における領地は武州埼玉郡、下野(しもつけ)の芳賀(はが)・塩谷2郡あわせて2万3,000石。あとの領地は関西に散在している。

並行して一橋家の威光によって入牢(じゅろう)中の尾高長七郎を救出しようとしたが、長七郎は刃傷沙汰に走った現場で召し捕らえられた者なのでこの工作はうまくゆくわけもなかった。

ふたりにとって誤算はさらにつづいた。そのもととなったのは、「天狗党(てんぐとう)」と呼ばれるようになっていた水戸の尊攘激派が3月中に筑波山に挙兵し、下野の太平山、日光山にも兵を派遣して幕府と対決する構えを見せるという大騒動が起こっていたことである。

水戸藩家老・武田耕雲斎、おなじく水戸町奉行・田丸稲之衛門(いなのえもん)、藤田東湖(とうこ)のせがれ・小四郎らを領袖格とする天狗党は、かつて栄一たちが夢見た攘夷戦決行を悲願として蜂起した者たちにほかならない。かれらが四方に檄(げき)を飛ばして同志を募ったため栄一のかつての同志たちにもこれに応じた者が多く、栄一は思ったように人材を集めることができなかった。それでも江戸で撃剣家を8、9人、漢学書生を2人、一橋家の領地で農民40人あまりを集めることができたので、何とか形だけはさまになった。

ただし、ここでふたたび思わぬ事態が起こった。そのひとつは、栄一が江戸に呼ぼうとしていた尾高新五郎(長七郎と同じく栄一の従兄)が岡部藩の牢に投じられてしまったことである。新五郎は天狗党に参加を求められていたので、岡部藩はかれを天狗党の一味と早合点して捕縛に走ったらしかった。

そしてもうひとつは、6月16日に平岡円四郎が京で水戸の激派に殺害された、との飛報にやや遅れて接したことであった。

天狗党に好意を寄せる在京の水戸藩尊攘激派にとっては、水戸徳川家の出身で、「禁裏御守衛総督」兼「摂海防禦指揮」という特別職にある一橋慶喜こそが、再鎖港のため攘夷戦の先頭に立ってほしい存在にほかならなかった。しかし慶喜に、攘夷戦に討って出ようという動きは見られない。それはなぜかといえば、平岡が「開国主義」を慶喜に吹きこんで判断を狂わせているからだ。そう信じこんだ在京の水戸の激派が平岡を暗殺してしまったのである。

栄一としては、自分を士分に採り立ててくれ、かつ人を集めて組織を作る才能を認めてくれた恩人を失ってしまったわけだから、心細さに嘆息するしかなかった。それでも平岡に命じられたことだけは果たさねばと気強く思い返し、妻・千代と再会してから募に応じた者たちとともに中山道(なかせんどう)から上京することにした。これが9月初めのことだが、6月以降の京は「狂乱の時代」に突入していた。

ちなみに栄一の『雨夜譚』は幕末に生まれた男の回想録によくあることながら、妻子に関する記述がきわめて少ない。男の含羞(がんしゅう)がそうさせるためであろうが、このとき栄一は深谷宿に1泊する前に手前の宿根(しゅくね)宿まで千代を呼び出し、千代が抱いてきた2歳の歌子との対面を果たしている。

『雨夜譚』岩波文庫版には革製のソファに腰掛けた和服姿の千代の写真が掲載されているが、島田髷を結った秀でた額の下に目鼻立ちの整った色白の瓜実顔(うりざねがお)が品よくおさまり、大変な器量好しである。夫妻の長女歌子も後に東大法学部教授・穂積陳重(ほづみ のぶしげ)に嫁いだことから見て、出来の良くない子だったとは思えない。【つづく】

お気に入りに登録

プロフィール

作家 中村 彰彦

作家 中村 彰彦

1949年栃木県生まれ。作家。東北大学文学部卒。在学中に「風船ガムの海」で第34回文學界新人賞佳作入選。卒業後1973~91年文藝春秋に編集者として勤務。1987年『明治新選組』で第10回エンタテインメント小説大賞を受賞。1991年より執筆活動に専念し、93年、『五左衛門坂の敵討』で第1回中山義秀文学賞を、94年、『二つの山河』で第111回(同年上半期)直木賞を、2005年に『落花は枝に還らずとも』で第24回新田次郎文学賞を、また2015年には第4回歴史時代作家クラブ賞実績功労賞を受賞する。近著に『幕末維新改メ』(晶文社)など。史実第一主義を貫く歴史作家。

ホームページ:中村彰彦公式サイト

関連記事

会員登録 / ログイン

会員登録すると会員限定機能や各種特典がご利用いただけます。 新規会員登録

会員ログインの方はこちら