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渋沢栄一の「士魂商才」 ビジネスリーダーなら知っておきたい「日本資本主義の父」の肖像

第5話:渋沢栄一の生涯最大の危機【後編】

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一世一代のテロ計画を立てるも先を越されてしまう

さて、文久3年(1863)8月になると、いつ焼き打ち・異人斬りの計画を実行するかという話になり、11月23日の冬至の日を期して、と決定した。これは、空気の乾いている季節の方が焼き打ちした火がひろがりやすい、という発想であった。

そこでもともと調和型の栄一は、さりげなく父に暇乞(いとまご)いをしておくことにした。「こやつ、何か危いことを考えているな」と父が気づいて自分を勘当してくれれば迷惑をかけなくて済む、と考えてのことである。

そこで9月13日の観月の祝いの日、栄一は尾高新五郎と渋沢成一郎を血洗島村(ちあらいじまむら)の実家に招いた上で、自分を自由に行動させてほしい、と父・市郎右衛門に持ちかけた。農民として生きてゆく覚悟の父と栄一のやりとりは翌朝までつづいたが、最後に父は、親子がおのおのその好むところに従って行動しよう、といってくれた。これで栄一は親に不義理をすることを気にかけずに行動できるようになったわけである。

翌日早速、栄一は同志のひとり武沢市五郎に尾高長七郎宛の手紙をあずけ、京へ旅立たせた。むろん長七郎を挙兵に参加させようとしてのことで、飛脚問屋に書状を託さなかったのは、反幕的な計画を記した内容をだれかに知られる危険を考慮したのであった。これに応じて長七郎は、10月中に帰郷。勇んだ栄一は同29日、成一郎、中村三平とともに手計村(てばかむら)の尾高邸に集まり、新五郎もまじえて長七郎の意見を聞くことにした。

ちなみに、『雨夜譚』では言及されていないものの、文久3年は前年よりさらに物情騒然とした年であり、長州・薩摩の2藩に至っては本当に攘夷戦に踏み切りさえした。

4月20日 幕府は天皇に5月10日をもって攘夷期限とすると上奏(5月10日から攘夷を開始するという意味)。

5月10日 長州藩、下関(馬関〈ばかん〉)でアメリカ商船を砲撃。23日にはフランス軍艦、26日にはオランダ軍艦をも無差別砲撃し、「馬関攘夷戦」と自讃する。

6月1日 アメリカ軍艦、長州藩砲台を報復攻撃。5日、フランス軍艦も報復攻撃に加わり、上陸した陸戦隊が下関の砲台を占拠、破壊。

7月2日 イギリス艦隊、生麦事件の賠償金を要求して薩摩藩領の鹿児島湾に侵入、「薩英戦争」はじまる(4日まで)。

8月17日 大和五条で「天誅組の変」発生(27日壊滅)。

8月18日 公武合体派の薩摩藩・会津藩が「薩会(さっかい)同盟」を結んで宮廷クーデタ「8月18日の政変」を起こし、在京の長州藩士およびそれと結託していた三条実美ら7人の尊攘激派公卿を京から追放(七卿落ち)。

これら一連の出来事のうち、渋沢栄一の挙兵計画を先取りした形になったのが「天誅組の変」である。

これは、堂上(とうしょう)公卿・中山忠能(ただやす/明治天皇の外祖父)の7男忠光を主将、岡山脱藩・藤本鉄石や土佐脱藩・吉村虎太郎らを領袖格とする尊攘激派の7、80人が、攘夷親政の軍をまず大和にお迎えするとして五条の代官所に乱入し、代官ら6人を殺害した事件のこと。「天誅組」と称したかれらはその後、大和十津川郷で兵力1,000をかき集めはしたが、公武合体派諸藩の追討を受けるやもろくも敗走し、藤本鉄石や吉村虎太郎は討死(うちじに)、中山忠光は長州へ亡命した。

友の命がけの説得により冷静さを取りもどし、生涯最大の危機を回避

幕末の日本と現代との大きな違いのひとつは、ニュースの伝わるスピードにある。その日、尾高長七郎が語った「天誅組の変」の顛末は、栄一たちにとっては初耳の事実であった。おそらく愕然とした表情になって居たであろう栄一たちの前で、「横浜まで押出(おしだ)して居留の外国人を攘斥(じょうせき)しようとするには、十分訓練した兵でなければ出来る訳のものじゃない」(『雨夜譚』)と長七郎は結論づけた。もちろん長七郎に、栄一らの計画に賛同する気などはまったくなかった。

そこから激論がはじまり、長七郎が栄一を殺してでも挙兵を止めるといえば、栄一は長七郎を刺してでも挙兵を決行する、と言い返す。あげくの果ては「殺すなら殺せ」、「刺し違えて死ぬ」というところまで行きはしたが、そこで一歩退いて考えた栄一は、長七郎のいうところはもっともである、とついに考え直した。

京に集まった尊攘激派の様子を知るべく長七郎を京に上らせた栄一は、その長七郎の伝えた「天誅組の変」の顛末からおのれの考えの甘さに気づいたのである。

もしも栄一たちが横浜焼き打ちを決行したならば、破滅型の人間として刑場の露と消える運命をたどったことであろう。すなわちこのとき栄一は気づかずして生涯最大の危機にあったわけだが、精神のバランスの良さによって一夜にして迷妄から覚め、ふたたび調和型の性格を取りもどすことができたのであった。

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プロフィール

作家 中村 彰彦

作家 中村 彰彦

1949年栃木県生まれ。作家。東北大学文学部卒。在学中に「風船ガムの海」で第34回文學界新人賞佳作入選。卒業後1973~91年文藝春秋に編集者として勤務。1987年『明治新選組』で第10回エンタテインメント小説大賞を受賞。1991年より執筆活動に専念し、93年、『五左衛門坂の敵討』で第1回中山義秀文学賞を、94年、『二つの山河』で第111回(同年上半期)直木賞を、2005年に『落花は枝に還らずとも』で第24回新田次郎文学賞を、また2015年には第4回歴史時代作家クラブ賞実績功労賞を受賞する。近著に『幕末維新改メ』(晶文社)など。史実第一主義を貫く歴史作家。

ホームページ:中村彰彦公式サイト

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