第5話:渋沢栄一の生涯最大の危機【後編】

日本の資本主義の礎を築いた渋沢栄一。2022年に日本最高額紙幣の“顔”となる「日本資本主義の父」がどのように生まれたかを、史実第一主義の直木賞作家・中村彰彦氏が紹介する。
今では「日本資本主義の父」と称えられ、穏健で理知的なイメージのある渋沢栄一にも、若い頃に国の難局に接し、テロリズムへと傾倒した時期があったのをご存じだろうか。鎖国政策撤廃によって疫病蔓延を招き、不平等条約締結による政治不安といった問題を抱える幕末の日本は、現代と同じ様相を呈している。時代の大転換となる幕末戊辰戦争へとひた走る時代のなかで、農民育ちの栄一が被支配階級を脱し政治を志すと同時にあわやテロリストとなりかけたエピソードから、後年の大企業家の片鱗ともいえる、そこで発揮された組織力と資金繰り、物資調達の手腕を紹介。さらに、恩人によって正気を取りもどさせてもらうまでを、歴史を追ってみてゆく。(編集部)

コレラ蔓延に始まった過激な異人排斥と情勢不安が高まる時代背景

文久2年(1862)4月11日、老中首座・安藤信正は「坂下門外の変」の際に背に負傷したことを士道不覚悟とみなされ、罷免されてしまった。しかし。信正は見識のある老中であり、攘夷派ぞろいの朝廷とすでに開国に踏み切っている幕府とを融和させるべく「公武合体論」を主張していた。「公」とは孝明天皇を代表とする公家(くげ)のこと、「武」とは14代将軍徳川家茂(いえもち)をトップとする武家政権のこと。信正は皇女・和宮(かずのみや)を将軍家茂に嫁がせることにより公武合体の実を挙げようと考えていた。

これをよしとして佐幕的な主張を唱える者は「公武合体派」と呼ばれ尊攘激派と激しく対立するに至る。そんな時代の雰囲気のなかで、文久2年は次第に物情騒然となった。年表風に書くと、この年には下のような事件が連続して起こったのである。

4月16日 薩摩藩で「国父(こくふ)」といわれている藩主茂久(もちひさ/のちの忠義〈ただよし〉)の父・島津久光、兵1,000を率いて上京し、公武合体派の立場から朝廷に意見を述べる(いわゆる国事周旋〈こくじしゅうせん〉)。

4月23日 この行動を「攘夷のための挙兵」と信じた薩摩藩尊攘激派の有馬新七ら、伏見の寺田屋に集結して挙兵しようとしていたところを久光の命令によって上意討ちされる(伏見寺田屋騒動)。

5月29日 イギリス公使館警備の松本藩士、イギリス水兵を殺傷(第2次東禅寺事件)。

7月~8月にかけて 幕府は幕権強化のためあらたに「三職」を設け、一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)を「将軍後見職」に、福井藩主・松平慶永(よしなが)を「政事総裁職」に、会津藩主・松平容保(かたもり)を「京都守護職」に任命。

8月21日 江戸へ下って幕府に幕政改革を提議した島津久光一行、ふたたび上京する途中に行列の供先(ともさき)を割ったイギリス人商人・リチャードソンを無礼討ちし、攘夷を実践した形となる(生麦事件)。

11月2日 幕府、公武合体の一環として攘夷の勅旨に従うと決定。27日、尊攘激派の公卿・三条実美(さねとみ)、勅使として将軍家茂に攘夷督促の沙汰書を与える。

12月12日 長州藩尊攘激派の高杉晋作、久坂玄瑞(くさか げんずい)ら、品川御殿山に建設中のイギリス公使館を焼き打ち。

これら一連の出来事のうちでもっとも注目すべきは、かねてから攘夷を願って止まなかった孝明天皇が、欧米列強と攘夷戦をおこない再鎖国をするよう幕府に勅旨を伝達したことである。これは、島津久光と入れ違いに上京した長州藩主・毛利慶親(よしちか/のちの敬親)が「破約攘夷」すなわち欧米列強との通商条約をなかったことにして異人たちを日本から追い出し、再鎖国へもってゆく方針を国是(こくぜ)とするよう上奏(じょうそう)したことが大きかった。

激震する国情を見かねた渋沢栄一がテロ事件を画策

この年の春、24歳にしてふたたび江戸に出て4ヵ月間文武修業に励んだ渋沢栄一は、このような政情の変化に敏感に反応した。もともと幕藩体制に批判的だった栄一は、「朝廷からは終始かわらずに攘夷鎖港の勅諚(ちょくじょう)があるにもかかわらず、幕府においてはいつまでも因循(いんじゅん)して居て、今に朝旨を遵奉(じゅんぼう)せぬというのは【略】、征夷将軍の職分を蔑如(べつじょ)するものである」(『雨夜譚〈あまよがたり〉』)と、水戸学の説く尊王論の影響を受けて考えた。

そして、「幕政を洗濯したうえで」「国力を挽回する」(同)と尾高新五郎、渋沢成一郎と論じ合い、ついには「生麦事件」以上の「暴挙」を起こして日本を覚醒させるための捨石になろう、と話は決まった。栄一は本来、調和型の人間である。にもかかわらず、より血の気の多い新五郎、成一郎との長い交わりと文久2年の政情から身は破滅するも止むなしと思い切り、尊攘激派として武装蜂起することを決意したのであった。そこで3人は、次のような密議を凝らした。

(1)まず高崎城を乗っ取って兵備を整える。
(2)高崎城から兵を繰り出し、鎌倉街道を経て横浜にむかう。
(3)一挙に横浜を焼き打ちし、外国人と見たら片っ端から斬り殺してしまう。

この計画に基づいて同志を募ると、江戸留学中にともに学んだ北辰一刀流の剣術仲間から真田範之助(さなだ はんのすけ)、佐藤継助(つぎすけ)、竹内練太郎(れんたろう)、横川勇太郎、海保塾(かいほじゅく)からは中村三平が手を挙げ、渋沢家の親戚や郎党からも加わるものがあって総勢69人となった。

栄一はのちに多くの企業体の創立に関与するが、ここでも一匹狼として異人斬りに走るのではなく、渋沢一族関係者、剣友、学友らを組織して事にあたろうとしているのはまことに興味深い。

しかも、事を起こすには軍資金が必要になる。栄一はこの点もよく承知しており、藍の売買で稼いで父には隠していた金「およそ百五、六十両」によって、太刀、槍(やり)、竹槍、着こみ(鎖かたびら)、高張提灯(たかはりぢょうちん)などを買い集めた。

尊攘激派には金銭感覚の鈍い者が珍しくなく、高杉晋作などは藩庁から受け取った公金1,000両をひと晩の芸者遊びで使い果たしたこともある。対して渋沢栄一は謀主でありながら活動のスポンサーでもあろうとしたわけで、こういったところにものちの大起業家の萌芽が感じられる。

一世一代のテロ計画を立てるも先を越されてしまう

さて、文久3年(1863)8月になると、いつ焼き打ち・異人斬りの計画を実行するかという話になり、11月23日の冬至の日を期して、と決定した。これは、空気の乾いている季節の方が焼き打ちした火がひろがりやすい、という発想であった。

そこでもともと調和型の栄一は、さりげなく父に暇乞(いとまご)いをしておくことにした。「こやつ、何か危いことを考えているな」と父が気づいて自分を勘当してくれれば迷惑をかけなくて済む、と考えてのことである。

そこで9月13日の観月の祝いの日、栄一は尾高新五郎と渋沢成一郎を血洗島村(ちあらいじまむら)の実家に招いた上で、自分を自由に行動させてほしい、と父・市郎右衛門に持ちかけた。農民として生きてゆく覚悟の父と栄一のやりとりは翌朝までつづいたが、最後に父は、親子がおのおのその好むところに従って行動しよう、といってくれた。これで栄一は親に不義理をすることを気にかけずに行動できるようになったわけである。

翌日早速、栄一は同志のひとり武沢市五郎に尾高長七郎宛の手紙をあずけ、京へ旅立たせた。むろん長七郎を挙兵に参加させようとしてのことで、飛脚問屋に書状を託さなかったのは、反幕的な計画を記した内容をだれかに知られる危険を考慮したのであった。これに応じて長七郎は、10月中に帰郷。勇んだ栄一は同29日、成一郎、中村三平とともに手計村(てばかむら)の尾高邸に集まり、新五郎もまじえて長七郎の意見を聞くことにした。

ちなみに、『雨夜譚』では言及されていないものの、文久3年は前年よりさらに物情騒然とした年であり、長州・薩摩の2藩に至っては本当に攘夷戦に踏み切りさえした。

4月20日 幕府は天皇に5月10日をもって攘夷期限とすると上奏(5月10日から攘夷を開始するという意味)。

5月10日 長州藩、下関(馬関〈ばかん〉)でアメリカ商船を砲撃。23日にはフランス軍艦、26日にはオランダ軍艦をも無差別砲撃し、「馬関攘夷戦」と自讃する。

6月1日 アメリカ軍艦、長州藩砲台を報復攻撃。5日、フランス軍艦も報復攻撃に加わり、上陸した陸戦隊が下関の砲台を占拠、破壊。

7月2日 イギリス艦隊、生麦事件の賠償金を要求して薩摩藩領の鹿児島湾に侵入、「薩英戦争」はじまる(4日まで)。

8月17日 大和五条で「天誅組の変」発生(27日壊滅)。

8月18日 公武合体派の薩摩藩・会津藩が「薩会(さっかい)同盟」を結んで宮廷クーデタ「8月18日の政変」を起こし、在京の長州藩士およびそれと結託していた三条実美ら7人の尊攘激派公卿を京から追放(七卿落ち)。

これら一連の出来事のうち、渋沢栄一の挙兵計画を先取りした形になったのが「天誅組の変」である。

これは、堂上(とうしょう)公卿・中山忠能(ただやす/明治天皇の外祖父)の7男忠光を主将、岡山脱藩・藤本鉄石や土佐脱藩・吉村虎太郎らを領袖格とする尊攘激派の7、80人が、攘夷親政の軍をまず大和にお迎えするとして五条の代官所に乱入し、代官ら6人を殺害した事件のこと。「天誅組」と称したかれらはその後、大和十津川郷で兵力1,000をかき集めはしたが、公武合体派諸藩の追討を受けるやもろくも敗走し、藤本鉄石や吉村虎太郎は討死(うちじに)、中山忠光は長州へ亡命した。

友の命がけの説得により冷静さを取りもどし、生涯最大の危機を回避

幕末の日本と現代との大きな違いのひとつは、ニュースの伝わるスピードにある。その日、尾高長七郎が語った「天誅組の変」の顛末は、栄一たちにとっては初耳の事実であった。おそらく愕然とした表情になって居たであろう栄一たちの前で、「横浜まで押出(おしだ)して居留の外国人を攘斥(じょうせき)しようとするには、十分訓練した兵でなければ出来る訳のものじゃない」(『雨夜譚』)と長七郎は結論づけた。もちろん長七郎に、栄一らの計画に賛同する気などはまったくなかった。

そこから激論がはじまり、長七郎が栄一を殺してでも挙兵を止めるといえば、栄一は長七郎を刺してでも挙兵を決行する、と言い返す。あげくの果ては「殺すなら殺せ」、「刺し違えて死ぬ」というところまで行きはしたが、そこで一歩退いて考えた栄一は、長七郎のいうところはもっともである、とついに考え直した。

京に集まった尊攘激派の様子を知るべく長七郎を京に上らせた栄一は、その長七郎の伝えた「天誅組の変」の顛末からおのれの考えの甘さに気づいたのである。

もしも栄一たちが横浜焼き打ちを決行したならば、破滅型の人間として刑場の露と消える運命をたどったことであろう。すなわちこのとき栄一は気づかずして生涯最大の危機にあったわけだが、精神のバランスの良さによって一夜にして迷妄から覚め、ふたたび調和型の性格を取りもどすことができたのであった。